DH『イメージ、それでもなお』第二回目発表レジュメ

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』購読、第二回目は「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」の章となりました。以下のリンク先から読めます。なお本文中にある「別紙 ソンタグの感性・写真論」は、このはてなブログ2012 12 05づけの「ソンタグの感性・写真論(まとめ)」をご覧ください。
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※ 補記
本文中にはゼミで口頭発表した内容がないので、ここに簡単に紹介しておきます。
ラカン理論における鏡像段階の二重性について。
これがイメージを死守しなければならない理論的背景の一つであると考えることができるのではないか。またこの二重性から、ヴァジュマンとDHのすれ違いに目を向けて見ることができるのではないか。
たとえば、道端で息を切らしながらうずくまってしまった人がいたとしよう。その傍を通り過ぎるとき、あなたはどう思うだろうか。「大丈夫だろうか」「かわいそう」etc.さまざまな反応がありうるだろう。これがそのへんに転がっている石やペットボトルだったら、どうだろうか。同じだろうか。それが気懸りになるか否か、ある種本能的とも思えるような反射的反応があるか否か。ないとすれば、それはなぜだろうか。
「タイプ」と「トークン」として図式的に整理した鏡像段階の二つの領域に則して言えば、「それ」を同種のもの、似たものと見なすか否かが問われていると言える。すなわち、「タイプ」的鏡像段階である。対象を「回教徒」に置き換えてみれば、DHがアガンベンを批判した際に言わんとしていたことが、多少なりともわかってくる。翻って、ヴァジュマンの批判はどうかと言えば、それは「トークン」的鏡像段階へと向けられているとみなせるかもしれない。すべてを「この私」と同一化する思想だ、という批判はおそらくここから出てくる。
しかし、これ以上(あるいはすでに?)精神分析の側から誤解だ、と言われてしまうかもしれない。あまりラカン理論に拘泥する必要はない(ラカン理論がわかったからと言ってこの書物を理解できるわけではない)ので、このへんで。

ソンタグの諸論考について。
ソンタグが言うところの「形式」を、例えばDHの「黒い塊」に無造作に適用してしまっていいのだろうか。当時の言説史を踏まえれば、そしてDHの「黒い塊」が「ガス室の扉」といった意味をも含んでいたことも踏まえれば、一概には言えない。「感性」という言葉についても同様。

⒊ キャプションについて。
これももう少し文脈を捉え、それぞれの論者において何を意味されているのか、分析する必要がある。

ベンヤミンについて。
wayundertheiceさんの的確なご指摘の影響もあり、今回の作業ではよりベンヤミンの重要性を感じた。DHに限らず、例えば今回言及したソンタグも、随所でベンヤミンを参照している。〈非感性的類似〉(「模倣の能力について」より)や「翻訳者の使命」、あるいは彼の初期言語論や複製芸術論など、ベンヤミンが配置した星座の光はDHのこの議論に明らかに注がれている。今回は全体的にベンヤミンの紹介に留まってしまった(留まらざるを得なかった。私の勉強不足である)ので、今期中、残すところあと一回の発表までに多少なりとも理解を進めたい。

⒌ DHのその後の歩みについて。
例えば鍵概念の一つである「感情移入」について、「形なきものをつつむ」と題された講演記録ではむしろ議論の前景へと肯定的に用いられている。この論争がDH自身の歩みに少なからず影響を与えたことは確実であるが、それがどのようなものだったのか。『イメージ〜』で軋みをきたしていたところ、語れていないところ、語ってしまっているところなど、比較検討することも必要だろう。

⒌ 最後に、みなさん風邪には気をつけましょう(私以外全員マスクだった)。