棺桶からダイアグラムへ――荒川修作の50-70年代

【読売アンパンデビューまで】
 1936年、名古屋に荒川修作はうまれた。家族に芸術関係の人間はいなかったが、当時家の庭を共有していた隣人が町医者だった。その町医者の妻が芸術家だった。この二人から「医者になりたかったら、少しデッサンの勉強をしろ」と言われ五歳ごろから絵を習う。同時に荒川はこの町医者の鞄持ち兼看護夫役をし、手術の場にも日常的に立ち会ったりしていた。彼女には毎日のようにデッサンを習い、小学校では「上手いから絵描きになれ」と言われるほどに。その後、瑞穂が丘中学校、愛知県立旭丘高校美術課程へと進学。同級生には赤瀬川原平がいた。その後、この武蔵野美術学校に入学するも三週間ほどで中退。そして二十歳のころには深刻な鬱を経験することとなる。

【読売アンパンデビュー】
 57年の第9回に出品した荒川は、翌年の第10回にも続けて出品した。これがきっかけとなり東野芳明の紹介で詩人・評論家である瀧口修造に注目される。東野の妻、出光孝子とも交流とそれによもなう海藤日出男との接触があった。以後海藤宅に食事に呼ばれるようになる。その食事の席で瀧口修造を紹介された*1。58-59年にかけて、荒川はダイアグラム構成の作品とともに、『棺桶』シリーズと後に呼ばれる作品の制作を開始。本人は「人には見せない」つもりだったらしいが、荒川の下宿先を「お前何してる」と突然訪ねた瀧口が、「これは一度見せてみろ」と助言し*2、第2回ネオダダ展で初出品することになる。


→「抗成物質と子音にはさまれたアインシュタイン

【ネオダダ】
 1959年、吉村益信は、手術のため名古屋に戻っていた赤瀬川原平に〈オール・ジャパン〉(のちの〈ネオダダ〉)結成の手紙を出す。同年9月には東野芳明が欧米旅行から帰国していた。東野は翌年『みづゑ』3月号に「ヤンガー・ジェネレーションの冒険」と題し、アメリカのネオダダ(ラウシェンバーグジャスパー・ジョーンズら)の動向を伝えた*3。そしてその1960年、再び上京した赤瀬川は、〈オール・ジャパン〉結成の会合が開かれる吉村益信アトリエ(新宿)*4に出向く際、荒川に声をかけ連れて行った。同年3月の第12回読売アンパン展に出品した若手アーティストたち(赤瀬川原平荒川修作風倉匠、篠原有司男、吉村益信ら)によって、〈ネオダダ〉結成の宣言や会合が行われ、4月には「第1回ネオ・ダダイズム・オルガナイザー展」へとこぎつけた。*5


銀座を歩く〈ネオダダ〉のメンバー。右から篠原有司男、吉村益信、豊島壮六、荒川修作風倉匠、上野紀三。

【ネオダダからの離反――二度の個展】
 荒川は1960年9月、最初の個展「もうひとつの墓場」を開催する。しかしこれが〈ネオダダ〉メンバーにとって気に入らなかったらしく、荒川の行動は「抜け駆け」と非難され、そのまま〈ネオダダ〉から除名されることとなる。この個展で展示された『棺桶』について、東野芳明は次のように述べていた。

作者は、観客にこの棺の木の蓋をひとつずつ開けることを要求する。なかには、麻やビロードや布地のふとんの上に、ミイラのようなセメントの塊りがころがっている。その存在感と不在間の混淆が、じつに不気味なのだ。〔……〕内的なオプセッションが見る見るうりに、固い凝塊に変貌してゆく過程こそ、この奇体な作家の秘密の部分である。*6


 また、篠原は次のように回想している。「このじめじめした薄気味悪い個展で彼は決定的なデビューをした。ネオダダの派手な行動にいささかお手上げだった美術ジャーナリストがすべて荒川に集中した」。篠原はまた荒川の『棺桶』を「胎児の死体が紫のフトンを敷きつめた箱の中におさまっている」と描写していた。*7
 翌年の1961年、年明け早々の1月に銀座の夢土画廊で、江原順(美術批評家・ダダ研究者)の企画で、荒川の二度目の個展が開かれる。この個展でも『棺桶』シリーズが出展されたのだが、会場構成は『棺桶』十数点に加え、暗闇に光の輪が点滅する演出が加えられ、より不気味な雰囲気を醸し出していた。美術批評家の中原佑介は「ナンセンスという区分をこえた、より未分化で原初的な事柄の展示」と当時の朝日新聞で評した。この展覧会のカタログには瀧口修造による詩「なぜの彫刻」が寄せられた。

セメントと綿
に恐怖がとじこめられた
眠り草の化石〔……〕
世の中にいちばんばかげたもの
いちばん欲しいもの
寝床のなかの物
奇妙なみつけもの
肉体*8

 また企画者の江原は「狂気にうちかつ作家」と題し、次のように述べていた。

荒川は狂人にみえる。少なくとも、間歇的に、あふれるような狂気に襲われることはたしかである。けれども、かれの作品の、あのコンクリートの量塊との格斗は、そのまま、狂気の間歇泉をおしとどめ、鎮めようとする、作家の祈りであり、鎮魂のうたであり、たたかいなのである。この作家は、「制作」をやめれば、発狂するほかないのだ。*9

 これら一連の引用に見られる「胎児の死体」(篠原)、「未分化で原初的な事柄」(中原)、「狂気」(江原)といった表現は、この時期の荒川の作品および精神状態を的確に射ているものと言える。事実、荒川自身、『棺桶』シリーズを制作した58-60年頃には極度の精神的不安の発作に見舞われ、突然泣き出したり大声で歌いだすなどしていたからである。江原がこのように書くことができたのも、1960年の「お話会」(吉村アトリエ)などでこの時期の荒川と接することができたからに他ならない*10。作品を創ることを通して、荒川は「不安」と闘っていたのだろう。荒川自身の言葉を引く。

大まかにいえば変身の仕方の新しい方法を見つけたいのだ。過去の人たちのやった過程はみんな信じられないし、どうもね。だからって機械に託せないし、虫にもなれないし、〔……〕どうにもなれないのじゃだめだし、なにかにならなければだめだというのでね。*11

僕は、本当は新しい科学をやりはじめていたんだ。もうもっと小さいときから、永遠に生きてやろうと思っていて、それで追い詰められていたんだ。およそ当時の芸術とか科学とか哲学なんかに興味はなかった。この体を使って何かやろうと思っていて、それでこんな変なものができちゃった。つくっても、自分でつくったとはとうてい思えなかった[…]。*12

 1960年〈ネオダダ〉を除名された荒川は、その11月に日本大学芸術学部江古田祭における映画研究会(淺沼直也、城之内元晴、佐藤雅夫ら)とともに、映画『操行ゼロ』(1933)の上映会と称したイベント《JASAへの招待》の企画に参加している。このイベントに招待された者の中には、澁澤龍彦東野芳明らがいた*13。東野はこのイベントについて、1979年『みづゑ』で次のように回想している。

某大学の芸術祭から「操行ゼロ」という題の催しの招待状を貰った。会場に入ろうとすると、マッチやライターをすべて取りあげられ、懐中電灯で暗闇の部屋に通され、木の梯子を上り、坐らせられる。全くの闇。まわりにほかの観客がいるのが気配で分るだけ。なにひとつ起らない。いくら待っても、ただ闇と沈黙がつづくだけである。瞳孔は開きっぱなしだが、ほとんど何も見えない。しまいに、観客がパニック状態になる。誰かが、かくし持ったマッチをつけて、日常の意識が驟雨のように返ってきたときの安堵感。見ると梯子はとりはずされている。われ勝ちに下に降りたほくらの足許に、うずくまったまま動かない肉体がひとつ。アラカワは、朝から、この全くの闇の中で、仮死体を演じつづけていたのだった。真昼の校庭にとび出したときの、空虚な爽やかさ!*14

 このように東野は述べ、当時の荒川と〈ネオダダ〉の差異を次のように記している。

当時、篠原有司男、吉村益信らの「ネオ・ダダ・オーガナイザーズ・グループ」は、頭をモヒカン刈りにし、廃物アートをまきちらし、ボクシング・ペインティングに身を投じ、権威の否定と情念的な自爆的行為とのごったまぜのアクションにふけっていたが、アラカワの、何ひとつ起こらなかった、あの反イヴェントは、グループに対する負の挑戦状だった。*15

【日本脱出――ニューヨークへ】
 1961年12月、荒川はNYに到着する*16。渡米を勧めたのは、当時読売新聞社文化事業部長だった美術記者、海道日出男(1912-1991)だった。出光興産の創業者、出光佐三が航空券を贈ったらしい。ビザの保証人は雪の研究者、中谷宇吉郎。海道は戦後日本美術界のプロデューサーといった人物で、岡本敏子氏によれば、空襲で失われた岡本太郎の『痛ましき腕』の再制作を太郎に熱心に勧めて実現させた張本人である。*17
 荒川の回想によれば、〈ネオダダ〉脱退後、路頭に迷っていたら海道氏が「早く出て行け」「荒川、お前はここにはいない方がいい」「いい人探してやるよ、そのうちに」と言い、出光氏を紹介したそうである(つまり出光孝子は海藤を紹介したが、孝子の父・出光佐三を紹介したのは孝子ではなく海藤だったという捩れ) 。出光氏は荒川を赤坂の高級料亭に誘った。そこで荒川は一番安い料理を注文し食したところ、出光氏に信用されたらしく、その翌日にはお金が届いたという*18。(またこの縁で、荒川が出発する前、出光の娘・出光孝子(東野芳明の妻)が荒川の作品を引き取り、彼女が勅使河原宏草月会館)に預けた。これが2000年代になってようやく見つかり、修復を経て現在も現物を見ることが可能となっている)。
 当時の為替レートは一ドル三六〇円であり、渡米は容易ではなかった。そんな折、荒川を支援したのが瀧口修造であり、海の先のデュシャンだった。渡航直前の荒川に、瀧口は一冊の本を手渡した。そこには六万円入りの便箋が挟んであったという*19。瀧口はデュシャンを日本にいた時から紹介し、荒川の手紙を推敲しただけのものを渡米2,3年前から約2-30通もデュシャンに送っていた。瀧口の推敲を荒川が手直しすることもなく、赤入れが入ったままの手紙をデュシャンは受け取っていたので、荒川に会う前から変な奴だと思っていたらしい。


出発前の飛行場にて。瀧口と荒川。

 NY到着後すぐに荒川は瀧口の紹介でデュシャンに出会う。荒川は瀧口に教わった番号に電話をかけた。

「アラが名字で、カワが名前だろ?」――「まあ、そうだ」。
「アラ、おまえ今ポケットにいくらもってる?」――「12、3ドル、ポケットにある」。
「ワシントン・スクエア知ってるか?」――「知らない」。
「36っていうバスに乗れ、グリーン・ハットとグリーンのコートを着て、ワシントン・スクエアのアーチの下に俺は立ってる。爺でそんな奴を見たら俺だから来い」。*20

 こうして二人は出会い、近くの安いイタリアンレストランに入り、二人でトッピングなしのパスタ(spaghetti without sauce:デュシャンの表現)を食べたという。なぜspaghetti without sauceだったのか。日本人は白米を何もつけずに(rice without any)食べるだろ?というデュシャンなりの遊びである。これはその場のユーモアであり、真意としてはこれからの貧乏暮しに備えて、ということだった。デュシャンとはその後もこのレストランに一緒に行ったらしい。それでも着いてからの二週間は、デュシャンは徹底的に荒川を援助し、働かなくても済むようにしてくれたそうである*21。ただ、芸術に関する会話では、まず初めに必ずデュシャンは「芸術だけはするな」と言っていたらしい。

 彼と過ごした最初の6ヶ月でオノ・ヨーコと出会った。ヨーコは彼女のスタジオを荒川に紹介し、貸し与えた。そのスタジオにデュシャンアンディ・ウォーホルジョン・ケージ など蒼々たるアーティストを連れてきはじめる。荒川の回想によると、みな「どうしてデュシャンはお前のことをあれほど褒めるのだ」と不思議でならなかったらしい。ウォーホルはそれから毎週のように荒川を食事に呼ぶようになった。ケージは趣味(半ば研究)のマッシュルーム狩りに誘った。ケージとのキノコ狩りでは、「お前、これわかるか」と音の話をケージがすると、「ああ、わかるよ」と荒川は答えたらしい。するとケージは「お前の若さでなぜこのよさがわかるんだ!?」と驚いたらしい。*22
 ウォーホルの紹介もあり、ドイツの画商アルフレッド・シュメラーが、荒川のスタジオを訪れ「何でもいいから何かないか」「俺はまだ一週間いるから」と声をかける。荒川は建築の図面(ブルー・プリント)を拾い集めた。それに荒川がサインして壁にピンで留めておいたところ、シュメラーが再訪した時「これ、俺に売らないか」と切り出され、一枚あたり「75ドルか100ドル」と言われたらしい。三日ほど経つと「全部売れた」と連絡が入り「あと10点ぐらいないか」と言われ、一気に話はトントン拍子にすすみ、お金には早くも困らなくなった。デュシャンはその作品を見て「これ、お前の名前書いてあるな」「これならいい」と荒川に言った。シュメラーはさらに荒川の作品をヨーゼフ・ボイスに購入の仲介を果した。*23
 また1963年頃、仏・伊・米などを旅行していた岡本太郎が、NYの荒川の下宿先を訪ねた。渡米以前から太郎は、(荒川によると)デュシャンとは違って「母親のように」何かと面倒を見てくれたらしい。そんな太郎がNYの部屋に入り、洗面所に積み上げられた洗濯前の下着の山を見つけると、しばらくじっと凝視するなり、「これが君の今度の作品か?」と真顔で荒川に聞いたそうだ。事の真相が知れた途端、二人は爆笑したらしい*24。執筆者の私が悪乗りするならば、ボルタンスキーはアラカワに先を越されていたのかもしれない――ガラクタがアートになる時代。


クリスチャン・ボルタンスキー「No Man's Land」
(これは古着=遺物ではなく、洗濯物の山…?これをホロコーストとして想像してしまうことが「囚われの想像力」(岡本源太)なのだとすれば、むしろ洗濯物の山とも見ることができる方が健全なのかもしれない、ひょっとして)

【マドリン・ギンズとの出会い】
 ギンズと荒川は1962年に出会う。当時すでに経済的な問題は解消されていたが、ビザが無いために学校に入学する必要があった。そこで荒川はブルックリン美術館のアート・スクールに行くことになる。そこにマドリン・ギンズが来ていた。当時を振り返って荒川は次のように述べている。

ブルックシン・ミュージアムにアートスクールがあり、ビザの件でその学校に行ったときに出会ったんですけど、彼女は少し頭がおかしかったんだ(笑)。いわゆるノイローゼといわれるもので……。ただそうした病気は治せる自信があったんで、治してやろうと思ってこうしているうちに、知らないうちにこうなっちゃった(笑)。不思議なことがたくさんありましてね(笑)。*25

 ギンズは絵も描いていたが、荒川が「お前全然才能ないから、やめろ」と言ったところ三週間ほどでやめてしまったらしい。荒川はビザがおりるなり、一年もしないうちにアート・スクールを辞めた。このような出会いを経て、荒川はギンズとともに1963年、「意味のメカニズム」プロジェクトを開始する。彼女との共同探究および度重なるデュシャンとの交流によって、荒川は日本にいた頃のような「自己閉鎖的な」(東野)ところから抜け出す契機を掴むことができたようである。
 しかしそもそも荒川がこのようなプロジェクトに専心しようと決心したのにも、やはりデュシャンの影響がみられる。ギンズとの『意味のメカニズム』のプロジェクトの萌芽を掴みかけた時期、デュシャンは毎週彼ら彼女らの作品を見にスタジオに訪れ、「お前はキャンバスを使う。絵具も使ってる。ペンシルも使ってるけど、これは絵じゃない」と言った。この言葉を聞き、荒川はこれを徹底的にやろうという決心をしたようである。*26

アメリカの文脈】
 戦後アメリカのアートシーンを社会構造の変化も含め、教科書的に振り返っておきたい*27。文脈は前後するが、先述した東野による渡米後の報告に密接に関わってくる文脈である。
 ボードリヤールによれば、消費が欲求の充足を目的とし、商品やサービスの使用価値を消費する経済的行動である以上に、それらを他者との差異を表示する記号として消費する心理的・象徴的行動となったこと、例えばヴィトンのハンドバッグは小物入れとしての機能のためではなく、あのデザインを自らの他者に対するステータス・シンボル(記号)として「消費」すること、これが社会全体へと波及し、消費対象となるすべてのものが記号化される社会、それが消費社会である。そのような社会では、記号化された商品の前に、社会の構成員は均質化されている。
 アートシーンでこの消費社会に真っ先に反応したのがポップアートだった。それは署名入りの消費されるモノとしての芸術という独自の地位を得るに至った。このように芸術作品が記号化されるという事態は、デュシャンの『泉』によって先取りされていた。レディメイドなもの、それ自体に芸術的価値など微塵もないものに、「署名」がなされるだけで差異化され、高値が付くという事態である。
 1940年代前半、第二次世界大戦の戦火を避けて、ヨーロッパからシュルレアリスム抽象絵画バウハウス関係者など、美術家、音楽家、建築家、デザイナーらあらゆる種類の前衛芸術家がニューヨークに亡命して来た。彼らがアメリカに来たのは、戦争で破壊されておらず、自由が保障されており、国が豊かで芸術に大金を投じる大富豪のパトロンたちが世界のどこよりも大勢いたからだった。アメリカの若い芸術家たちにとっても遠い地にいた最先端の作家たちが近くに来て指導してくれる絶好の機会となった。
 このような状況があって、40年代後半から50年代にかけてまずアメリカで(そしてアメリカが芸術において初めて世界に影響を与えることとなった)、ジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマン、マーク・ロスコらの抽象表現主義が注目された。ポップ・アートはここで登場して来る。ロバート・ラウシェンバーグジャスパー・ジョーンズアンディ・ウォーホルらである。特にラウシェンバーグ、ジョーンズらの試みは、消費社会の廃物・ガラクタを再利用したレディメイドジャンクアートの無意味な作品群によって、ハロルド・ローゼンバーグらの批評家から「ネオダダ」と命名された。東野が伝えたのはこの文脈であった。 
 荒川がNY生活を始めた頃、ポップアートは絶頂期にあったが、60年代半ばにはジョセフ・コスースらのコンセプチュアル・アートが注目を集めた。コスースの『ひとつと三つの椅子』(1965)は、シンプルな木製の椅子とその写真と言語記述を同時に提示するものである。このようなコンセプチュアル・アートの動向が、荒川にどのような影響を与えていたのか(あるいは与えていないのか)、現段階ではわからないが、『棺桶』から後述する『意味のメカニズム』への展開を考える上での比較対象として重要であると思われる。

参考文献・資料・ウェブサイト
・『荒川修作-60年代立体作品展 カタログ』、gallery ART UNLIMITED、2008年。
・『みづゑ』1979年7月号。
・『荒川修作展図録 絵画についての言葉とイメージ』、西武美術館、1979年。
・『芸術新潮 大特集 さよなら、岡本太郎』1996年5月号。
塚原史荒川修作の軌跡と奇跡』、NTT出版、2009年。
・黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』、grambooks、2010年。
・「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ 荒川修作インタヴュー 2009年4月4日」、インタヴュアー:由本みどり、富井玲子、書き起こし:池田絵美子。
http://www.oralarthistory.org/archives/arakawa_shusaku/interview_01.php
・gallery ART UNLIMITED web site.
http://www.artunlimited.co.jp/artists/shusaku-arakawa.html
・2008/3/5 朝日新聞
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200803050181.html

*1:「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ 荒川修作インタヴュー 2009年4月4日」

*2:同上

*3:東野の伝えたアメリカの動向によって、〈オール・ジャパン〉は〈ネオ・ダダイズム・オルガナイザー(ネオダダ)〉と改称されたが、グループ結成に至る過程はまったくもって日本独自のものであり、単に名称だけをアメリカ・ネオダダから借りただけである。

*4:吉村は富裕層に生まれ育ち、自身も芸術家でありながら、自らが結成したグループのパトロン的存在として活動していた。それゆえ新宿の吉村アトリエは、当時の東京のアーティストたちの交差点的位置を占めていた。

*5:黒ダライ児「年譜」pp.23-27. 黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』、grambooks、2010年、所収を参照。

*6:美術手帖』1960年11月号。塚原史荒川修作の軌跡と軌跡』NTT出版、2009年、p.34. 参照。

*7:篠原有司男『前衛の道(完全復刻版)』、ギュウチャン・エクスプローション!プロジェクト実行委員会、2006年。塚原史、前掲書、p.35. 参照。

*8:瀧口修造「なぜの彫刻 荒川修作のための断片」(1961年)、『荒川修作-60年代立体作品展 カタログ』、gallery ART UNLIMITED、2008年、所収。

*9:江原順「狂気にうちかつ作家」(1961年)、『荒川修作-60年代立体作品展 カタログ』、gallery ART UNLIMITED、2008年、所収。

*10:黒ダライ児、「年譜」、前掲書所収、p.28. 参照。

*11:美術手帖』1961年8月号。塚原史、前掲書、p.40. 参照。

*12:塚原史、前掲書、pp.211-2.

*13:黒ダライ児、前掲書、pp.156-7. 参照。

*14:みづゑ』1979年7月号、pp10-11。

*15:同上、p.11。

*16:荒川は飛行機が空を飛ぶというのがどうしても信じられず、アメリカに到着するまで怖さのあまり機内でずっと中腰でいた、という笑い話を伝えているのは大岡信である。『みづゑ』1979年7月号、p.12. 参照。

*17:塚原史、前掲書、p.42. 参照。

*18:塚原史、前掲書、p.219. 参照。

*19:だからといって瀧口自身もそれほど裕福だったわけではない。むしろ食生活や部屋代の工面にも苦労していたらしい。(「荒川修作インタヴュー」参照)。

*20:荒川修作インタヴュー 2009年4月4日」参照。

*21:塚原史、前掲書、p.44, 220. 及び「荒川修作インタヴュー 2009年4月4日」参照。

*22:「荒川インタビュー」参照。

*23:「荒川インタビュー」参照。

*24:荒川修作「私の岡本太郎 思想家・太郎かあさん」、pp.80-82.『芸術新潮 大特集 さよなら、岡本太郎』1996年5月号、所収

*25:塚原史、前掲書、p.221.

*26:荒川修作インタヴュー」参照。

*27:以下のまとめは次を参照。塚原史、前掲書、pp.50-52.

ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』読解 ――「純粋経験」の理論的位置づけをめぐる一解釈

 ウィリアム・ジェイムズが提唱する「純粋経験」が彼の理論においてどのような位置を占めており、どのような機能を果たしているのかを理解することが目的である。ジェイムズ自身、純粋経験を根本に据えてその一元論を提唱しているため、一見すると理解は容易に思われる。だがそれぞれの論考の間で明瞭に、整合的に議論が展開されているとは必ずしも言い切れない。私が注目するのは、「純粋経験」は「あれthat」 であり、「単に「思考されるだけ」[ merely “thought - of” ]」 である、とはっきりジェイムズが言っている点である。そして「あれthat」をけっして「これthis」とは言っていないこと。私はこれらをあえて字義通りに受け取るという態度で臨む。こうした読解から浮かび上がってきたのは、ジェイムズの理路が極めて伝統的哲学の系譜に則したものであり、実在と現象の二元論を論駁しているようで実はその理論が二元論に陥ってしまいかねないように思われるということである。私はそこでジェイムズを批判的に見たわけだが、ジェイムズが一元論を主張していることも踏まえ、それでもなお一元論化しうるのはなぜか、と問うことで一元論の再構築を試みていく。そこで鍵となるのが「半カオスquasi-chaos」という事後性の媒介様相である。この媒介の位相は分析を進めることができなかったが、重要な点であることが確認されることを目標としている。最後にジェイムズに影響を受けたと言われるラッセルや、ラッセルを批判したクリプキがこの「半カオス」の次元を捨象したが故に陥った構造を指摘し、翻ってジェイムズの理論の特徴を再度「半カオス」に求められることを指摘しておく。

 知覚対象に限らず、概念や記憶、空想といった場合でも「純粋経験」の理論は維持できる、とジェイムズは主張している。なぜできるのかというと、知覚対象と同様「これらもまた[also]第一次志向[first intention]において捉えられるかぎり、純粋経験の諸断片にすぎ」 ないからである。ではこの「第一次志向first intention」とは何なのか。ジェイムズは次のように言っている。

わたしが概念を第一次志向において捉えるというのは、それが結びつけられるであろう可能な知覚経験とのかかわりを無視して考えるということである。[…]第一次的なあり方においてわれわれが問題にするのは、単に「思考されている」だけで、直接感じられたり見られたりしていない世界である。この世界は、まさに知覚対象の世界と同様に、最初は経験の混沌[chaos]として現れ、やがてそこに秩序づけの線が引かれることになる。

 第一次志向において捉えられた概念の世界とは、はじめ経験の混沌として現れ、それは知覚も感覚もできない、単に考えることができるだけの世界である。そして、これは第一次志向において捉える限り、知覚対象の世界にも当てはまることなのだ、とジェイムズは言っていることになる。そしてこの知覚し得ぬ混沌がその後「秩序づけ」されることで、はじめて知覚し感覚することができるようになる、というのだ。この混沌の世界をジェイムズは「単なるあれ[that]としか呼びようがない」 ものと言い、この「単なるあれ」が「単に「思考されているだけ」」の世界、「非知覚的経験non-perceptual experience」にほかならない。
 第一次志向において捉えられた混沌たる世界が「純粋経験」であるとするならば、以後、「純粋経験」と「あれthat」は同じものを意味するものとして話を進めよう。「あれthat」は「やがてそこに秩序づけの線が引かれる」。この「秩序づけの線」が引かれた後、われわれが感覚する世界を「これthis」と名付けることにしよう。「あれthat」と「これthis」の間には時間的隔たり(「やがて」)がある。「これthis」には事後性が含まれているのだ。しかし、この事後性の時間も「思考されるだけ」の側面がある。というのも、「あれthat」が「思考されるだけ」であって感覚されない以上、時間的始点がわからないのだから。どこから由来したのかわからないが、いつの間にか「これthis」が生じた、という事態がここで生じているのである。この事後性の時間は非知覚的世界と知覚世界を区別しつつ媒介する役目を果たしているために、このような両義性を孕まざるをえないのである。これは逆にこうも言える。われわれに与えられているのは「これthis」と「事後性」の時間であり、これらが契機となってわれわれは「あれthat」を思考する、と。
 ということは徹頭徹尾、「あれthat」および「事後性」は理念的に要請される対象、権利上の構築物なのではないだろうか?それは結局のところ、「これthis」という感覚レベルから出発したとき、この「これthis」という経験が可能なのはなぜか、その可能性の条件を探求していこうとするカントの身振りとさして変わらない。「あれthat」と「事後性」は、「これthis」を可能にするうえでアプリオリに前提されなければならないものである。ジェイムズの理路はこのように、極めてカント的なのではないだろうか。あるいは少なくとも、「あれthat」と「これthis」の二元論になってしまうのではないか?

 ここでカント哲学とジェイムズの理論とを正確に比較検討することはできない。その是非は棚上げし、議論を先に進めよう。ここではジェイムズの議論がカントのそれと類似性がある、と仮定してみたうえで、ジェイムズはカントも採用したような二元論(実在ないし「物自体」と現象の区別)の道を進まないのだから、ここからどのように一元化へと展開していくのか?というようにして議論を進めていきたい。

 「あれthat」はカオスであり、このカオス総体の「真理性truth」は問われない。「それが何であるかを決定する」ことができないからである。真理性とはこの決定の仕方が正しいか否かに関わるものである以上、決定が宙づりにされてしまっているならば問題となりようがないのは明らかである。それが何かを決定するためには、それないし「あれthat」を秩序づける必要があるのだ。秩序づけたうえで決定を下す際の思考とは、具体的文脈に埋め込まれた状態でなされる機能なのであるから、すでに「文脈に依存したものにほかならない」 。それについてあれこれ思弁を巡らせても、それは「純粋理性」の暴走でしかない、とカント風に言い換えることもできるだろう。ただしカントは実在と現象を峻別したのち、議論の対象をその境界の内部、すなわち諸現象に限定してしまった。ジェイムズがカントと違う点をひとつあげるとすれば、ジェイムズはこの境界線それ自体を考察したと言えるかもしれない。どういうことか。
 ここでまず、上で軽く触れた「文脈化」についてもう少し敷衍しておこう。ジェイムズは複数の項同士の関係性を表す語として、with、near、next、like、towards、against、for、through、my、といったものを列挙している。このなかでもっとも中立的な関係、単に共存している関係を示すのが「と共にwith」であり、その他はwith以上に親密性を帯びた性格を持っている。したがって、「あれthat」のカオスとは一切がwithの関係でひしめき合っている多様体の謂いである(「原初的には[originally]カオス的多様体[chaotic manifold]として現れる」)。こうしたwithの世界は特定の要素にとって現実に知覚されることはないのだから、その要素(すなわち意識という機能を発現する項)にとって「潜在的potential」な次元に留まっているということができるだろう。特定の文脈化を施すというのは、すべてがwithというフラットな潜在的次元から、自らにとってwith以上に親密な関係性をピックアップすることで「これthis」へと構造化する経験の謂いである。
 ここから先に参照した「可能な知覚経験とのかかわりを無視して考える」「第一次志向」を捉え返してみよう。そこでの「無視」は切断ではなく、すべての関係性をwithの次元へと還元することであり、潜在的な次元へと置き直すことであるとみなすことができる。繰り返せば、そうした次元はなんら特権的な関係、優先的に捕捉される文脈というのがないwithのみの関係である(これが「あれthat」には分節がない 、とジェイムズが言うときの事態である。経験の質は関係ないし文脈の階層化によって生じる。質がなく感覚されない経験とは、文脈な無いことではなく、階層化がなされていないだけである。ゆえに「このthis」の経験とは、フラットな潜在性の感光紙から特定の輪郭を浮かび上がらせることであり、思考はこの感光紙に作用するフィルターないし化学液のようなものと言える)。
 ここで重要なのは「縮減」の様相をどのように理解するかである。「あれthat」から「これthis」が生じてくる構造化のプロセスが「やがて」の時間性であり、私有化のプロセスであることは繰り返し述べてきた。このプロセスを経ることで「潜在的」なもののいくつかが「現実的actual」になる――「混沌から秩序へfrom chaos to order」。この「from-to」あるいは「やがて」の事後性の時間は、まさに混沌と秩序の間である。ジェイムズが「カオスchaos」に加え「半カオスquasi-chaos」 という言葉も用いていたことをここで想起しよう。「やがて」の事後性ないし遅延の時間に対応するのはこの「半カオスquasi-chaos」である。境界線は理念的ものとしての幅を持たない「線」ではないのであって、独自の領域をもっているのである。
 以上を踏まえてラッセルを振り返れば、彼は「半カオスquasi-chaos」の時間性「やがて」の様相変化の次元を処理しきれていないのかもしれない。というよりもこの次元が分析の遡上から外されるが故に、現実の認知と記述が完全に分離し、世界が記述(言語)の位相のみで了解=処理される。こうした抽象的な世界把握が現実の認知と短絡する際、どうしても解消できぬ不安・懐疑がつきまとう。この齟齬が記述できないものであり、そうした残滓が結局のところ「これ」や「あれ」といった指示子と発話に圧縮され負荷が欠けられる(神秘化される)。この点でラッセルを批判しているクリプキの固有名論も同様の構造を共有してしまっているように思われる。しかしこの点は本論では被いきれないので割愛する。

DH『イメージ、それでもなお』第二回目発表レジュメ

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』購読、第二回目は「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」の章となりました。以下のリンク先から読めます。なお本文中にある「別紙 ソンタグの感性・写真論」は、このはてなブログ2012 12 05づけの「ソンタグの感性・写真論(まとめ)」をご覧ください。
ファイル を見るには、このリンクをクリックしてください:
https://skydrive.live.com/redir?resid=B388270C520E0D21!132&authkey=!ALb24CKsSEQZ2xY

※ 補記
本文中にはゼミで口頭発表した内容がないので、ここに簡単に紹介しておきます。
ラカン理論における鏡像段階の二重性について。
これがイメージを死守しなければならない理論的背景の一つであると考えることができるのではないか。またこの二重性から、ヴァジュマンとDHのすれ違いに目を向けて見ることができるのではないか。
たとえば、道端で息を切らしながらうずくまってしまった人がいたとしよう。その傍を通り過ぎるとき、あなたはどう思うだろうか。「大丈夫だろうか」「かわいそう」etc.さまざまな反応がありうるだろう。これがそのへんに転がっている石やペットボトルだったら、どうだろうか。同じだろうか。それが気懸りになるか否か、ある種本能的とも思えるような反射的反応があるか否か。ないとすれば、それはなぜだろうか。
「タイプ」と「トークン」として図式的に整理した鏡像段階の二つの領域に則して言えば、「それ」を同種のもの、似たものと見なすか否かが問われていると言える。すなわち、「タイプ」的鏡像段階である。対象を「回教徒」に置き換えてみれば、DHがアガンベンを批判した際に言わんとしていたことが、多少なりともわかってくる。翻って、ヴァジュマンの批判はどうかと言えば、それは「トークン」的鏡像段階へと向けられているとみなせるかもしれない。すべてを「この私」と同一化する思想だ、という批判はおそらくここから出てくる。
しかし、これ以上(あるいはすでに?)精神分析の側から誤解だ、と言われてしまうかもしれない。あまりラカン理論に拘泥する必要はない(ラカン理論がわかったからと言ってこの書物を理解できるわけではない)ので、このへんで。

ソンタグの諸論考について。
ソンタグが言うところの「形式」を、例えばDHの「黒い塊」に無造作に適用してしまっていいのだろうか。当時の言説史を踏まえれば、そしてDHの「黒い塊」が「ガス室の扉」といった意味をも含んでいたことも踏まえれば、一概には言えない。「感性」という言葉についても同様。

⒊ キャプションについて。
これももう少し文脈を捉え、それぞれの論者において何を意味されているのか、分析する必要がある。

ベンヤミンについて。
wayundertheiceさんの的確なご指摘の影響もあり、今回の作業ではよりベンヤミンの重要性を感じた。DHに限らず、例えば今回言及したソンタグも、随所でベンヤミンを参照している。〈非感性的類似〉(「模倣の能力について」より)や「翻訳者の使命」、あるいは彼の初期言語論や複製芸術論など、ベンヤミンが配置した星座の光はDHのこの議論に明らかに注がれている。今回は全体的にベンヤミンの紹介に留まってしまった(留まらざるを得なかった。私の勉強不足である)ので、今期中、残すところあと一回の発表までに多少なりとも理解を進めたい。

⒌ DHのその後の歩みについて。
例えば鍵概念の一つである「感情移入」について、「形なきものをつつむ」と題された講演記録ではむしろ議論の前景へと肯定的に用いられている。この論争がDH自身の歩みに少なからず影響を与えたことは確実であるが、それがどのようなものだったのか。『イメージ〜』で軋みをきたしていたところ、語れていないところ、語ってしまっているところなど、比較検討することも必要だろう。

⒌ 最後に、みなさん風邪には気をつけましょう(私以外全員マスクだった)。

ソンタグの感性・写真論(まとめ)

 『反解釈』では芸術作品をあるがままに受け取ることをせず、形式と内容とに二分し、「内容こそ本質的、形式はつけたしであるとみなす」傾向を批判している。内容(意味)への眼差しは作品を「思想」ないし「文化」という既存の解釈コードへと回収しようとするものであり、「芸術作品を飼い馴らす」。しかし形式とは「感覚の印刷であり、直接的な感覚の印象と記憶(それが一個人のものであれ、一文化のものであれ)との間の交渉の媒体」なのであるから、「形式にもっと注目すること」が必要である。生産過剰にある現代においては、その過剰な生産物がかえってわれわれの感性を鈍磨・画一化している。それゆえ「芸術作品とは、何よりもまず、われわれの意識と感性を変革するもの」なのだから、その力を借りて「われわれの感覚と取り戻すこと」、つまり「感性を特に鍛えること」で「もっと多くを感じるようにならなければならない」とされる。
 翻って芸術作品において、このような内容およびその解釈に絡め取られないジャンルないし作品はあるのか。ソンタグは映画がそれである、と言う。「すぐれた映画は必ずわれわれを、解釈の欲求から完全に解放してくれるところの直接性をもっている」。映画には「内容以外に、手がかりになるものがつねにそこにある」。それは「たとえばカメラワークとか、編集[モンタージュ]とか、画面の取り方など」、いわば「外形の語彙」とでも言うべき手がかりである。
 『反解釈』においてこのように述べられている「芸術作品」を写真に置き換えてみれば、DHが「イメージをその形式的な個別性において認識」(「黒い塊」の重要視)して、それをトリミングしてしまうことを批判している点にも通じているだろう。意味=理性に依らない感性と認識の前景化、という点ではDHが参照したアーレントによるカント解釈とも類比的にみえる。しかしソンタグは写真を論ずる場合、ある種の葛藤を抱えながら「映像のエコロジー」を主張するようになる。
 DHが『イメージ、それでもなお』pp.108-109.において述べているような、商品化やクリシェ化と結びついてしまう写真(あるいはイメージ)の両義性、つまり解釈が芸術作品を飼い馴らしてしまうのと同じように、イメージが現実を飼い馴らしてしまうという現状認識がソンタグ自身の写真体験との葛藤を生んでいたのである。彼女の『写真論』はこの写真の両義性をめぐって揺れている。『反解釈』と同様、カメラおよび写真を知覚の「教化、育成」と捉えてはいるが、「写真による世界の認識の限界は、それが良心を刺戟しながらも、結局は倫理的あるいは政治的認識にはなりえない」と言う。というのも「写真には現実的なものへ即座に接近できるという含みがある。しかしこうして即座に接近する結果はまた距離を生み出すことになる」から、つまり「私たちに参加を許しながら一方で疎外を確証している」から、この距離=訴外が「つねにある種の感傷主義」となってしまうからである。ベンヤミンがキャプションに見出した重要性も、ソンタグにあっては警戒の的である 。
 こうして、イメージが現実を凌駕するほどまでになった現状(「美的消費者中心主義」)を見、ソンタグは「自然保護論者の救済策を適用する理由があるのである。現実の世界が映像の世界を包含するもっとよい方法がありうるのなら、それは現実の事物についてだけでなく、映像についての生態学(エコロジー)をも要求するであろう」 と結論せざるをえなくなってしまった。
 『他者の苦痛へのまなざし』は『写真論』の続編であり、美的消費者中心主義の認識や、写真は知の入口への「契機以上のものではない」といった大筋の見解は変わらないものの、ある修正が見られる。この修正は彼女の政治的コミットメントの経験(セルビアによるクロアチアおよびボスニアへの侵略をきっかけに、彼女は自らボスニア支援のためサラエヴォに逗留し、抵抗活動を行った)に裏打ちされている。そして「われわれは『写真論』のなかで私が求めた「映像のエコロジー」を目指すべきだろうか。映像のエコロジーが生まれる気配はない」という自己批判を皮切りに、自ら『写真論』の主張を「保守的な批判だ」と捉え直し、議論の修正を試みている。
 まず、映像の氾濫といった「現実の権威を弱めようとする動きとは無関係な現実が、依然として存在している」ことが――自らの政治的活動の経験をもとに――主張される。次に「私の主張はむしろ現実の擁護、現実にたいして充分に反応する感度、現在危機に瀕しているその感度の擁護なのである」ということが確認される。つまり彼女は『反解釈』での主張を反復しているのである。映像が現実にすり替わることはない、そのような認識は安全な所にいる傍観者、特権者の穿った精神にすぎないという主張 は、ある種の現場主義を思わせるが、「しかし近距離で、映像の介入なしに苦しみを眺めることも、眺めるという点では同じである」という主張も加味すれば、安易な現場主義とも一線を画しているのがわかる。
 ではなにが問題なのか。彼女は「一歩退いて考えることは何ら間違っていない」としたうえで、「そのような写真を畏敬をもって眺め、それを十分に受け止める環境が保障されていないこと」、「深刻な内省のための空間」が確保されづらい現状が一つの問題かもしれない、とされる。だが写真は契機以上ではないゆえ、最終的に「われわれは知らない。われわれはその体験がどのようなものであったか、本当には想像することができない 、現場に身を置いた人々――ソンタグ自身の経験が当然ベースとなっている――は「あなたたちには理解できない。あなたたちには想像できない」と確信しているし、見る側のわれわれは「そのとおりだと、言わねばならない」と結論される。

 ソンタグが直面したのは、参加し行動する者としての立場と観察し分析する者としての立場の裂け目であったということができるだろう。彼女はこの裂け目から写真を考察していたのである。感覚の他者性の不可知性や、「映像が提示するものについてわれわれが何もなし得ないという挫折感」(「だが翌年、戦争はやってきた」)の中で、それでもなお「映像への期待」がなされているということは――感性=現実感覚を擁護し鍛え、感性的ショックを契機とすることで――「苦痛を生む世界のメカニズム」を知ることへと誘うためだったのだろうか。しかし、「苦痛を生む世界のメカニズム」という表現はソンタグ自身の言ではない。むしろこれでは単なる知識とどのように違うのか結局のところわからなくなってしまう。ソンタグは単なる知識として片づけたくなかったからこそ、彼女の理路は揺れていたのではなかったか。だとすれば、その震える筆先が刻むエクリチュールは何を求め喘いでいたのか。「いかにしてかを知ろうとする者」の困難とそこに賭けられているものはどのようなものだったのだろうか。

ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』講読;10/26演習レジュメ

私が担当して作成したレジュメです。このリンクは表示のみ許可するもののようですが、本当かな?誰でも編集できてしまうような感じもするのですが、もしアクセスして他人も編集できるのか、アクセスしたかたがいらっしゃれば、教えてください。全体的に論旨を汲みづらいかもしれませんが、お読みいただいた際は是非ぜひ批判や意見、追加の疑問などお寄せください。ゼミの参加学生が少ないので、このような形で多くの人を議論に巻き込んでいければ、とも思っております。 http://sdrv.ms/RoZR44

夏の終わりに(1)―テラン・ヴァーグ、デリダ的亡霊、モニュメント

 現在、使用が留保されていること以外、なんら積極的に意味づけられることのない土地。ただ余白として現在その姿を晒している空き地。使用が留保されるどころか、使用可能性の見通しもつかない土地――それは「土地」として認識されてすらない。

 このような不確実な領域をイグナシ・デ・ソラ・モラレス=ルビオーはテラン・ヴァーグと呼んだ(『Anyplace 場所の諸問題』)。この不確実な領域の現在性は、未来への期待と過去への追憶に引き裂かれ、宙づりにされる。そして、われわれ自身の現存在の非在感からくる「不安」という感情(ハイデガー存在と時間』、拙著「「不在」への回帰―「No Man's Land」への一つの視座」参照)が、このような不確実な領域に充填される。

 幽霊は、このようないかがわしい領域にはびこる。その幽霊を構成するのは、その実体ではなく、物象化され、辺りを浮遊する解釈、憶測つまりウワサである。うわさは不安を発生源とする。そのいまだ出現せざる実体への恐れと不安が、あらゆる微細な物質にすら、不在の対象たる幽霊の痕跡を読み取ってしまい、浮遊する塵芥はソレが実在することの確かな物的証拠として扱われ始める。

 こうした不安を基にした過剰な読み取りは「文化」と呼ばれるものの象徴作用と無縁ではない――文化とは情報操作=解釈行為である。情報操作は、文字通り情報を物質的に稼働=操作=管理=誘導する。情報操作=解釈としての文化的営為とは、この得体の知れない幽霊のような存在――われわれ自身の不安――の不在の核を、あとから寄せ集めた些細な物質的断片によってなんとか表象=代理=捏造し、埋め合わせる=抑圧する活動、すなわち歴史形成のメカニズムである(「表象」と「抑圧」の表裏一体性、デリダマルクスの亡霊たち』)。

 情報操作としての文化的営み=解釈行為の性質は、その解釈に則した物質的痕跡=意味を、時間的順序を転倒して事後的に生み出すどころか、解釈自身がまさに物質的実在として増加し続けていく(その真偽起源はともあれ、それが語られたという物質的事実は現存し続け否定され得ない)。これは検閲機構を含むばかりか、それを塗り変える機能すら持つ(解釈の無限進行・増加については、ベルクソン『思惟と動くもの』も参照)。

 不安の起源にあったはずの、そもそもの幽霊とは、決して時間の流れに逆らって現われているわけではなく、紛れもなく現在にだけ知覚され観察されうる物質の微細な変容である。すなわち物質的現在として、現在ここに実在する姿でしかない。幽霊とは、未来と過去との連続性を断ち切られて(現在性の条件)初めて現象するものである(われわれが現在知覚できるものは幽霊のごとく不確実でしかない)。

 ルビオーは、かような幽霊の発生源たるテラン・ヴァーグ、つまるところ現在という不確実性をどう扱うかと問うたのだった。建築家の任務と宿命は結局のところテラン・ヴァーグを馴染みある空間へと均質に馴らし、使用可能性のある土地へと変容させることだったが、それに対して芸術(家)は、都市の生産的効率性に抵抗し、テラン・ヴァーグやヴァナキュラーな空間・場所だけが持つ特異性に魅了され、その保存のために闘っている、と彼は言う。

 しかしこうした傾向は、植民地主義の裏返しであるところの、未知なものへの憧憬というロマン主義的態度が残存しているだけかもしれない(ロマン主義の末裔)。彼らはただ、その光景を眺める特権的視点の占有を求めているにすぎず、いずれテラン・ヴァーグを埋め合わせる物質的代表(つまり「作品」という名のウワサだ)の特権的座をめぐって、覇権争いを始めかねないではないか?

 建築に限らず、未確定領域を支配的な歴史の連続性へと領土化するモニュメントという古くからの芸術形式と、現在の芸術はどれだけ遠ざかることができたといえるのだろうか。ロザリンド・クラウスは、写真は絵画のようなイメージの類似に基づくイコン的なものではなく、物質的痕跡としてのインデックスであると捉えている(クラウス『オリジナリティと反復』)。裏を返せば、とりたてて何も映っていなくとも(空虚でも!)、たしかにそれはある特定の時に外部の被写体から差し込んだ光が印画紙に与えた物質的変容の物質的痕跡であると写真では了解されるということである。これはくだんの痕跡としての幽霊と同様の図式である。そもそもイコン=聖像が並の画像と区別されて歴史的に扱われてきたのは、イメージの類似ではなく物資的直接的痕跡として理解されてきたから(ヴェロニカのハンカチーフ)であることを思い返せば、クラウスのインデックス説は、ビザンティンでなされたイコン擁護論を写真に焼き直しただけではないか?こうなれば、写真とて、非在化された過去から現在へ唯一残存し続ける物質的痕跡=モニュメントであることの例外たりえない。そこに思わずわれわれが見てしまう歴史という幻影=物象化された時間の姿は、過去からも未来からも切断された、現存在自身の不安が変容=物象化した姿にほかならない。

 バブル以来建設された文化施設は、そのソフトのなさで批判されている。ここで芸術に期待される役割は、この曖昧な空虚になんとか意味を充填することだった。だがその空虚なハコ自体、未来へのいかなるプロジェクト(大きな物語)も喪失し、歴史の連続性から切り離され、宙づりにされた現在という不安な領域を埋め合わせるために捏造されたものである。空白(ホワイト・キューブ)に空白(ゆうれい)が、重ね合わせられていく。塗り重ねられる空白はしかし、そのハコに向けられたとりとめのない期待や嫌悪と同一である。この重ね塗りの営為はまさに物質的過剰として存在し、増加し続けていく。文化施設というハコモノ自体、巨大な物質的ウワサなのである。幽霊と同じく、そのハコの真偽も正当性もはかりうる術はない。

 だが、幽霊は微細な物質に宿りうることにこそ、その本領があったのではなかったか。どうせ幽霊ならば、ほとんど知覚し得ないぎりぎりまで、すでに与えられた物質を微分していくことがふさわしい。どのみち幽霊は物質として実在し続けるだろうが、幽霊も物質も一貫性は期待できず不確定であるところにこそ、その本質がある。物質的現在に同時性も同一性も存在し得ない。幽霊に統一された身体はない。どこか安定した地盤に結び付けようとする足もない。幽霊は幽霊に徹せよ。幽霊について語るのではなく幽霊として全うできるかが問われているのではあるまいか。

 文化も芸術もその公共性、パブリック・インタレストを果たすだけなら、たかだかピンボケ写真一枚で用は足りる。ヒマなのにみずからが存在するという過剰な逆説に不安を抱えた人間が、そんな写真であれ、周辺に無数の言語を物質的に積みあげ、ウワサと解釈の文化的生産すなわちインタレストの生産に努めてくれるだろうから。

*参考文献は煩雑さをさけるため、必要最小限に留めた。基本的にデリダマルクスの亡霊たち』、磯崎・浅田編『Anyplace』、田中純『都市表象分析Ⅰ』を補助線としている。