2012-01-01から1年間の記事一覧

DH『イメージ、それでもなお』第二回目発表レジュメ

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』購読、第二回目は「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」の章となりました。以下のリンク先から読めます。なお本文中にある「別紙 ソンタグの感性・写真論」は、このはてなブログ20…

ソンタグの感性・写真論(まとめ)

『反解釈』では芸術作品をあるがままに受け取ることをせず、形式と内容とに二分し、「内容こそ本質的、形式はつけたしであるとみなす」傾向を批判している。内容(意味)への眼差しは作品を「思想」ないし「文化」という既存の解釈コードへと回収しようとす…

ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』講読;10/26演習レジュメ

私が担当して作成したレジュメです。このリンクは表示のみ許可するもののようですが、本当かな?誰でも編集できてしまうような感じもするのですが、もしアクセスして他人も編集できるのか、アクセスしたかたがいらっしゃれば、教えてください。全体的に論旨…

夏の終わりに(1)―テラン・ヴァーグ、デリダ的亡霊、モニュメント

現在、使用が留保されていること以外、なんら積極的に意味づけられることのない土地。ただ余白として現在その姿を晒している空き地。使用が留保されるどころか、使用可能性の見通しもつかない土地――それは「土地」として認識されてすらない。 このような不確…

memo:リンク

web美術館 http://www.artmuseum.gallery-aoki.com/index.htmlGoogle Art Project http://www.googleartproject.com/ja/近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/偽日記 http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/UST http://www.ustream.tv/new

語彙memo

いまいち使い分けがわからなかったnaked とbareとnude. 私なりに調べてみたところ、ひとまず以下の整理をしておく。naked ... 裸の,むき出しの bare ....(部分的に)むき出しの、衣服をつけていないどちらかというとnakedは人全体、bareは身体の部分、とい…

Giorgio Agamben "Means without End" 拙訳(未完のため随時更新・調整中)

序文 この書に収められているそれぞれのテクストは、特異な政治的諸問題に対して、私なりに思考を試みたものである。もし政治が今日において自らの失墜を先延ばすことを実現しているのだとしたら、そして宗教や政治、さらには司法までもが各々の存在のステー…

「不在」への回帰―「No Man's Land」への一つの視座

「作品」に対峙した際の、ある種の「わからなさ」がある。にもかかわらず、「楽しげな」あるいは「哀しげな」といったプリミティヴな印象・反応だけはある。そんな鑑賞体験は少なくない。特に、「知識」がなければ如何ともしがたい「壁」を感じる、そんな経…

固有名について:要約

『名指しと必然性』を著したクリプキは、そこでフレーゲ/ラッセルの記述理論を批判した。記述理論では、固有名を縮約された確定記述の束と捉える。「アリストテレス」という名は、「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」といった…

選択-決断‐行為という難問(1)

幻肢の例を考えてみよう。無いはずの腕の感覚が、実は顔や肩口にもたらされる。これはこれでよい。しかし肩口なら絶えず肌着と衣擦れするのではないか。そうであるにもかかわらず、ある時は幻肢が感じられず、ある時には感じられる。つまり肩口の触感は時と…

モニカ・ワグナー「画像-文字-素材 ボルタンスキーとジガードソン、キーファーの作品における記憶の構想」抜粋

モニカ・ワグナー「画像-文字-素材 ボルタンスキーとジガードソン、キーファーの作品における記憶の構想」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007030426 #CiNii これは今村氏によってなされたワグナー論文の部分訳である。訳者補遺として最後で語られているように…

永井均『〈魂〉に対する態度』―「ヴィトゲンシュタインの〈感覚〉とクリプキの〈事実〉」要約および考察(1)

クリプキのウィトゲンシュタイン解釈。それは『ウィトゲンシュタインのパラドックス』から『名指しと必然性』で転回されている。その評価はまさに賛否両論である。なされている批判は主に大きく二つに大別できる。クリプキの議論そのものに対する批判と、ク…

2012 大地の芸術祭 越後妻有

今年で第五回を迎える「大地の芸術祭」。私は今回が初の参加となったわけだが、ボルタンスキー三昧であった。初日、ジェームズ・タレルの「光の館」にて直島からの期待を裏切ることのない世界観を楽しんだ後、十日町にある「キナーレ」という施設にて一つ目の…

東京都美術館「生きるための家」展

先月末、東京都美術館に「生きるための家」展http://www.tobikan.jp/museum/2012/artsandlife2012.html を観にいった。次世代を担う建築家(の卵)による「すまう」ことの提案を公募し、そのなかから若手建築家(西沢、藤本、平田、小嶋の各氏)による表彰を…

memo:visageの語義

visage 《文語》 顔,顔だち,容貌(ようぼう). [古期フランス語「見られるもの」の意]

「お勉強」課題1

「メタ−フィクション」という「フィクション」を書きつける視点があるという点で、考古学も精神分析も方法論は違えど似てしまうとしたら。そのような「メタ」=「フィクション」を脱構築するデリダにとって、仮説的なものであれメタを確保しているフーコーは…

ミシェル・テヴォー『不実なる鏡』抜粋

「視的欲動の対象aとは、およそ「他者」のあの計り知れず、不安を惹き起こす、ときに耐えがたい眼差しのことであり、この眼差しは、私の視野に穿たれた黒い穴、去勢によって開けられた裂け目にも比較されうるだろう。それは禁止され失われた享楽の探究を、再…

コンパートメント

例年通り、乗車率は100%を超えている。あと三分で発車。改札を通るときだった。慌てて乗り込んだ車両は指定席。もちろん切符は自由席。コンパートメントで一時間を過ごすことにした。田中純『政治の美学』を開く。日暮れ前の最後の日差しを浴びながら。15分…

翻訳と解釈(注釈)―Fragmente von Novalis

様々な覚書・注釈1797-1798〔「花粉:Blütenstaub という根本表現」友よ、土地は貧しい、我々は多くの種を蒔かなければならない、 せめて慎ましい実りだけでも育むために。(エピグラフ注釈;「土地der Boden」とは何か。①ドイツ文化(ナショナリズム的解釈…

鉄とコンクリート。欲望とその去勢―そして回帰。

バイパスから少し入った路地裏。すぐわきには中学校がある。その中学校に対して反対側に、煎餅工場がある。のっぺりとした外壁に囲まれ、異様な威圧感のある、アナクロニックな工場。民家のわきにこんなものがある事自体、奇妙だった。その工場が、一部建物…

剥き出しの暴力、剥き出しの生(死)。生死の無媒介性、一体性。一対ではなく。

政治的決定はなされなければならない。そのためには、政治的決定権を行使する空間は、ある種の超越的、特権的なものでなければならない。そこには、その特権性ゆえの危険性があるからこそ、民衆は思考を投下し、信約convenance=契約を結ぶ。リヴァイアサン…

近代と宗教(1)

人間は言語を習得することによって初めて理性を目覚めさせ、世界を開く(言語論的転回)。言語教育、つまり他者による教育=伝達を受けることによって、初めて生きうる存在となるのが人間である。この意味で、人間の生は、その人物が生まれる前からすでに始…

弔い

「剥き出しの生」と呟いてみる。すかさず「剥き出しの死」というものが、舌を襲う。忘れるなよ、と。そうなのだ、剥き出しの生を語るのならば、剥き出しの死が亡霊の如く漂う。死に淫するわけにはいかない、しかし、どのようにして。限定的に、きわめて限定…

生命哲学memo1

自己が自己に触れるという経験 →キアスム的反転(キアスム的可逆性)としての「肉」 →「蝶番(折り目)」としての肉の概念 ←しかしこのキアスムを可能にする超越論的平面の必要性 →存在論的に先行する総体的一的場面 →自己と他者を一気にとらえる自己ならざ…

セザンヌの空白、への垂れ流し

国立新美術館でのセザンヌ展を観た。単刀直入に。個人的にはセザンヌは好きでも嫌いでもない。よくわからない。感じる、というより考えることに忙しい。セザンヌの技法。そのビットを思わせるようなシンプルなタッチで織り成される調和的色価、つまり明度と…

memo

敷居を石化してしまうのではなく、石化する一歩手前に踏みとどまって、佇んでみること。河川敷。空気を食むこと。

memo

http://youtu.be/zlfKdbWwruY去年からずっとこれを観ている。最近ではピナを観たせいもあり、踊ることとはなんなのだろう、と想う。

memo

宛先無記名、差出人不明の手紙は、送付の回路に乗るのだろうか、という問題。

無題

冬夜音なき声が、階段下から駆けてきた、まどろむ、その遠くから。歩き出す、表裏は冷ややかに。いつもの顔が、覗いている。

ハイデガー『芸術作品の根源』 関口浩訳 平凡社ライブラリー

決定的な書物である。前期ハイデガーからの転回、まさにその通りの書物だという読後感。特に「真理と芸術」の章は圧巻である。静かに、足元を確かめながら歩み始めた、そのさまよいが、最後には駆け去るような、そんな印象である。詩作が「贈与、根拠づけ、…