2012-09-01から1ヶ月間の記事一覧

夏の終わりに(1)―テラン・ヴァーグ、デリダ的亡霊、モニュメント

現在、使用が留保されていること以外、なんら積極的に意味づけられることのない土地。ただ余白として現在その姿を晒している空き地。使用が留保されるどころか、使用可能性の見通しもつかない土地――それは「土地」として認識されてすらない。 このような不確…

memo:リンク

web美術館 http://www.artmuseum.gallery-aoki.com/index.htmlGoogle Art Project http://www.googleartproject.com/ja/近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/偽日記 http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/UST http://www.ustream.tv/new

語彙memo

いまいち使い分けがわからなかったnaked とbareとnude. 私なりに調べてみたところ、ひとまず以下の整理をしておく。naked ... 裸の,むき出しの bare ....(部分的に)むき出しの、衣服をつけていないどちらかというとnakedは人全体、bareは身体の部分、とい…

Giorgio Agamben "Means without End" 拙訳(未完のため随時更新・調整中)

序文 この書に収められているそれぞれのテクストは、特異な政治的諸問題に対して、私なりに思考を試みたものである。もし政治が今日において自らの失墜を先延ばすことを実現しているのだとしたら、そして宗教や政治、さらには司法までもが各々の存在のステー…

「不在」への回帰―「No Man's Land」への一つの視座

「作品」に対峙した際の、ある種の「わからなさ」がある。にもかかわらず、「楽しげな」あるいは「哀しげな」といったプリミティヴな印象・反応だけはある。そんな鑑賞体験は少なくない。特に、「知識」がなければ如何ともしがたい「壁」を感じる、そんな経…

固有名について:要約

『名指しと必然性』を著したクリプキは、そこでフレーゲ/ラッセルの記述理論を批判した。記述理論では、固有名を縮約された確定記述の束と捉える。「アリストテレス」という名は、「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」といった…

選択-決断‐行為という難問(1)

幻肢の例を考えてみよう。無いはずの腕の感覚が、実は顔や肩口にもたらされる。これはこれでよい。しかし肩口なら絶えず肌着と衣擦れするのではないか。そうであるにもかかわらず、ある時は幻肢が感じられず、ある時には感じられる。つまり肩口の触感は時と…

モニカ・ワグナー「画像-文字-素材 ボルタンスキーとジガードソン、キーファーの作品における記憶の構想」抜粋

モニカ・ワグナー「画像-文字-素材 ボルタンスキーとジガードソン、キーファーの作品における記憶の構想」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007030426 #CiNii これは今村氏によってなされたワグナー論文の部分訳である。訳者補遺として最後で語られているように…

永井均『〈魂〉に対する態度』―「ヴィトゲンシュタインの〈感覚〉とクリプキの〈事実〉」要約および考察(1)

クリプキのウィトゲンシュタイン解釈。それは『ウィトゲンシュタインのパラドックス』から『名指しと必然性』で転回されている。その評価はまさに賛否両論である。なされている批判は主に大きく二つに大別できる。クリプキの議論そのものに対する批判と、ク…

2012 大地の芸術祭 越後妻有

今年で第五回を迎える「大地の芸術祭」。私は今回が初の参加となったわけだが、ボルタンスキー三昧であった。初日、ジェームズ・タレルの「光の館」にて直島からの期待を裏切ることのない世界観を楽しんだ後、十日町にある「キナーレ」という施設にて一つ目の…

東京都美術館「生きるための家」展

先月末、東京都美術館に「生きるための家」展http://www.tobikan.jp/museum/2012/artsandlife2012.html を観にいった。次世代を担う建築家(の卵)による「すまう」ことの提案を公募し、そのなかから若手建築家(西沢、藤本、平田、小嶋の各氏)による表彰を…