ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』読解 ――「純粋経験」の理論的位置づけをめぐる一解釈

 ウィリアム・ジェイムズが提唱する「純粋経験」が彼の理論においてどのような位置を占めており、どのような機能を果たしているのかを理解することが目的である。ジェイムズ自身、純粋経験を根本に据えてその一元論を提唱しているため、一見すると理解は容易に思われる。だがそれぞれの論考の間で明瞭に、整合的に議論が展開されているとは必ずしも言い切れない。私が注目するのは、「純粋経験」は「あれthat」 であり、「単に「思考されるだけ」[ merely “thought - of” ]」 である、とはっきりジェイムズが言っている点である。そして「あれthat」をけっして「これthis」とは言っていないこと。私はこれらをあえて字義通りに受け取るという態度で臨む。こうした読解から浮かび上がってきたのは、ジェイムズの理路が極めて伝統的哲学の系譜に則したものであり、実在と現象の二元論を論駁しているようで実はその理論が二元論に陥ってしまいかねないように思われるということである。私はそこでジェイムズを批判的に見たわけだが、ジェイムズが一元論を主張していることも踏まえ、それでもなお一元論化しうるのはなぜか、と問うことで一元論の再構築を試みていく。そこで鍵となるのが「半カオスquasi-chaos」という事後性の媒介様相である。この媒介の位相は分析を進めることができなかったが、重要な点であることが確認されることを目標としている。最後にジェイムズに影響を受けたと言われるラッセルや、ラッセルを批判したクリプキがこの「半カオス」の次元を捨象したが故に陥った構造を指摘し、翻ってジェイムズの理論の特徴を再度「半カオス」に求められることを指摘しておく。

 知覚対象に限らず、概念や記憶、空想といった場合でも「純粋経験」の理論は維持できる、とジェイムズは主張している。なぜできるのかというと、知覚対象と同様「これらもまた[also]第一次志向[first intention]において捉えられるかぎり、純粋経験の諸断片にすぎ」 ないからである。ではこの「第一次志向first intention」とは何なのか。ジェイムズは次のように言っている。

わたしが概念を第一次志向において捉えるというのは、それが結びつけられるであろう可能な知覚経験とのかかわりを無視して考えるということである。[…]第一次的なあり方においてわれわれが問題にするのは、単に「思考されている」だけで、直接感じられたり見られたりしていない世界である。この世界は、まさに知覚対象の世界と同様に、最初は経験の混沌[chaos]として現れ、やがてそこに秩序づけの線が引かれることになる。

 第一次志向において捉えられた概念の世界とは、はじめ経験の混沌として現れ、それは知覚も感覚もできない、単に考えることができるだけの世界である。そして、これは第一次志向において捉える限り、知覚対象の世界にも当てはまることなのだ、とジェイムズは言っていることになる。そしてこの知覚し得ぬ混沌がその後「秩序づけ」されることで、はじめて知覚し感覚することができるようになる、というのだ。この混沌の世界をジェイムズは「単なるあれ[that]としか呼びようがない」 ものと言い、この「単なるあれ」が「単に「思考されているだけ」」の世界、「非知覚的経験non-perceptual experience」にほかならない。
 第一次志向において捉えられた混沌たる世界が「純粋経験」であるとするならば、以後、「純粋経験」と「あれthat」は同じものを意味するものとして話を進めよう。「あれthat」は「やがてそこに秩序づけの線が引かれる」。この「秩序づけの線」が引かれた後、われわれが感覚する世界を「これthis」と名付けることにしよう。「あれthat」と「これthis」の間には時間的隔たり(「やがて」)がある。「これthis」には事後性が含まれているのだ。しかし、この事後性の時間も「思考されるだけ」の側面がある。というのも、「あれthat」が「思考されるだけ」であって感覚されない以上、時間的始点がわからないのだから。どこから由来したのかわからないが、いつの間にか「これthis」が生じた、という事態がここで生じているのである。この事後性の時間は非知覚的世界と知覚世界を区別しつつ媒介する役目を果たしているために、このような両義性を孕まざるをえないのである。これは逆にこうも言える。われわれに与えられているのは「これthis」と「事後性」の時間であり、これらが契機となってわれわれは「あれthat」を思考する、と。
 ということは徹頭徹尾、「あれthat」および「事後性」は理念的に要請される対象、権利上の構築物なのではないだろうか?それは結局のところ、「これthis」という感覚レベルから出発したとき、この「これthis」という経験が可能なのはなぜか、その可能性の条件を探求していこうとするカントの身振りとさして変わらない。「あれthat」と「事後性」は、「これthis」を可能にするうえでアプリオリに前提されなければならないものである。ジェイムズの理路はこのように、極めてカント的なのではないだろうか。あるいは少なくとも、「あれthat」と「これthis」の二元論になってしまうのではないか?

 ここでカント哲学とジェイムズの理論とを正確に比較検討することはできない。その是非は棚上げし、議論を先に進めよう。ここではジェイムズの議論がカントのそれと類似性がある、と仮定してみたうえで、ジェイムズはカントも採用したような二元論(実在ないし「物自体」と現象の区別)の道を進まないのだから、ここからどのように一元化へと展開していくのか?というようにして議論を進めていきたい。

 「あれthat」はカオスであり、このカオス総体の「真理性truth」は問われない。「それが何であるかを決定する」ことができないからである。真理性とはこの決定の仕方が正しいか否かに関わるものである以上、決定が宙づりにされてしまっているならば問題となりようがないのは明らかである。それが何かを決定するためには、それないし「あれthat」を秩序づける必要があるのだ。秩序づけたうえで決定を下す際の思考とは、具体的文脈に埋め込まれた状態でなされる機能なのであるから、すでに「文脈に依存したものにほかならない」 。それについてあれこれ思弁を巡らせても、それは「純粋理性」の暴走でしかない、とカント風に言い換えることもできるだろう。ただしカントは実在と現象を峻別したのち、議論の対象をその境界の内部、すなわち諸現象に限定してしまった。ジェイムズがカントと違う点をひとつあげるとすれば、ジェイムズはこの境界線それ自体を考察したと言えるかもしれない。どういうことか。
 ここでまず、上で軽く触れた「文脈化」についてもう少し敷衍しておこう。ジェイムズは複数の項同士の関係性を表す語として、with、near、next、like、towards、against、for、through、my、といったものを列挙している。このなかでもっとも中立的な関係、単に共存している関係を示すのが「と共にwith」であり、その他はwith以上に親密性を帯びた性格を持っている。したがって、「あれthat」のカオスとは一切がwithの関係でひしめき合っている多様体の謂いである(「原初的には[originally]カオス的多様体[chaotic manifold]として現れる」)。こうしたwithの世界は特定の要素にとって現実に知覚されることはないのだから、その要素(すなわち意識という機能を発現する項)にとって「潜在的potential」な次元に留まっているということができるだろう。特定の文脈化を施すというのは、すべてがwithというフラットな潜在的次元から、自らにとってwith以上に親密な関係性をピックアップすることで「これthis」へと構造化する経験の謂いである。
 ここから先に参照した「可能な知覚経験とのかかわりを無視して考える」「第一次志向」を捉え返してみよう。そこでの「無視」は切断ではなく、すべての関係性をwithの次元へと還元することであり、潜在的な次元へと置き直すことであるとみなすことができる。繰り返せば、そうした次元はなんら特権的な関係、優先的に捕捉される文脈というのがないwithのみの関係である(これが「あれthat」には分節がない 、とジェイムズが言うときの事態である。経験の質は関係ないし文脈の階層化によって生じる。質がなく感覚されない経験とは、文脈な無いことではなく、階層化がなされていないだけである。ゆえに「このthis」の経験とは、フラットな潜在性の感光紙から特定の輪郭を浮かび上がらせることであり、思考はこの感光紙に作用するフィルターないし化学液のようなものと言える)。
 ここで重要なのは「縮減」の様相をどのように理解するかである。「あれthat」から「これthis」が生じてくる構造化のプロセスが「やがて」の時間性であり、私有化のプロセスであることは繰り返し述べてきた。このプロセスを経ることで「潜在的」なもののいくつかが「現実的actual」になる――「混沌から秩序へfrom chaos to order」。この「from-to」あるいは「やがて」の事後性の時間は、まさに混沌と秩序の間である。ジェイムズが「カオスchaos」に加え「半カオスquasi-chaos」 という言葉も用いていたことをここで想起しよう。「やがて」の事後性ないし遅延の時間に対応するのはこの「半カオスquasi-chaos」である。境界線は理念的ものとしての幅を持たない「線」ではないのであって、独自の領域をもっているのである。
 以上を踏まえてラッセルを振り返れば、彼は「半カオスquasi-chaos」の時間性「やがて」の様相変化の次元を処理しきれていないのかもしれない。というよりもこの次元が分析の遡上から外されるが故に、現実の認知と記述が完全に分離し、世界が記述(言語)の位相のみで了解=処理される。こうした抽象的な世界把握が現実の認知と短絡する際、どうしても解消できぬ不安・懐疑がつきまとう。この齟齬が記述できないものであり、そうした残滓が結局のところ「これ」や「あれ」といった指示子と発話に圧縮され負荷が欠けられる(神秘化される)。この点でラッセルを批判しているクリプキの固有名論も同様の構造を共有してしまっているように思われる。しかしこの点は本論では被いきれないので割愛する。