棺桶からダイアグラムへ――荒川修作の50-70年代

【読売アンパンデビューまで】
 1936年、名古屋に荒川修作はうまれた。家族に芸術関係の人間はいなかったが、当時家の庭を共有していた隣人が町医者だった。その町医者の妻が芸術家だった。この二人から「医者になりたかったら、少しデッサンの勉強をしろ」と言われ五歳ごろから絵を習う。同時に荒川はこの町医者の鞄持ち兼看護夫役をし、手術の場にも日常的に立ち会ったりしていた。彼女には毎日のようにデッサンを習い、小学校では「上手いから絵描きになれ」と言われるほどに。その後、瑞穂が丘中学校、愛知県立旭丘高校美術課程へと進学。同級生には赤瀬川原平がいた。その後、この武蔵野美術学校に入学するも三週間ほどで中退。そして二十歳のころには深刻な鬱を経験することとなる。

【読売アンパンデビュー】
 57年の第9回に出品した荒川は、翌年の第10回にも続けて出品した。これがきっかけとなり東野芳明の紹介で詩人・評論家である瀧口修造に注目される。東野の妻、出光孝子とも交流とそれによもなう海藤日出男との接触があった。以後海藤宅に食事に呼ばれるようになる。その食事の席で瀧口修造を紹介された*1。58-59年にかけて、荒川はダイアグラム構成の作品とともに、『棺桶』シリーズと後に呼ばれる作品の制作を開始。本人は「人には見せない」つもりだったらしいが、荒川の下宿先を「お前何してる」と突然訪ねた瀧口が、「これは一度見せてみろ」と助言し*2、第2回ネオダダ展で初出品することになる。


→「抗成物質と子音にはさまれたアインシュタイン

【ネオダダ】
 1959年、吉村益信は、手術のため名古屋に戻っていた赤瀬川原平に〈オール・ジャパン〉(のちの〈ネオダダ〉)結成の手紙を出す。同年9月には東野芳明が欧米旅行から帰国していた。東野は翌年『みづゑ』3月号に「ヤンガー・ジェネレーションの冒険」と題し、アメリカのネオダダ(ラウシェンバーグジャスパー・ジョーンズら)の動向を伝えた*3。そしてその1960年、再び上京した赤瀬川は、〈オール・ジャパン〉結成の会合が開かれる吉村益信アトリエ(新宿)*4に出向く際、荒川に声をかけ連れて行った。同年3月の第12回読売アンパン展に出品した若手アーティストたち(赤瀬川原平荒川修作風倉匠、篠原有司男、吉村益信ら)によって、〈ネオダダ〉結成の宣言や会合が行われ、4月には「第1回ネオ・ダダイズム・オルガナイザー展」へとこぎつけた。*5


銀座を歩く〈ネオダダ〉のメンバー。右から篠原有司男、吉村益信、豊島壮六、荒川修作風倉匠、上野紀三。

【ネオダダからの離反――二度の個展】
 荒川は1960年9月、最初の個展「もうひとつの墓場」を開催する。しかしこれが〈ネオダダ〉メンバーにとって気に入らなかったらしく、荒川の行動は「抜け駆け」と非難され、そのまま〈ネオダダ〉から除名されることとなる。この個展で展示された『棺桶』について、東野芳明は次のように述べていた。

作者は、観客にこの棺の木の蓋をひとつずつ開けることを要求する。なかには、麻やビロードや布地のふとんの上に、ミイラのようなセメントの塊りがころがっている。その存在感と不在間の混淆が、じつに不気味なのだ。〔……〕内的なオプセッションが見る見るうりに、固い凝塊に変貌してゆく過程こそ、この奇体な作家の秘密の部分である。*6


 また、篠原は次のように回想している。「このじめじめした薄気味悪い個展で彼は決定的なデビューをした。ネオダダの派手な行動にいささかお手上げだった美術ジャーナリストがすべて荒川に集中した」。篠原はまた荒川の『棺桶』を「胎児の死体が紫のフトンを敷きつめた箱の中におさまっている」と描写していた。*7
 翌年の1961年、年明け早々の1月に銀座の夢土画廊で、江原順(美術批評家・ダダ研究者)の企画で、荒川の二度目の個展が開かれる。この個展でも『棺桶』シリーズが出展されたのだが、会場構成は『棺桶』十数点に加え、暗闇に光の輪が点滅する演出が加えられ、より不気味な雰囲気を醸し出していた。美術批評家の中原佑介は「ナンセンスという区分をこえた、より未分化で原初的な事柄の展示」と当時の朝日新聞で評した。この展覧会のカタログには瀧口修造による詩「なぜの彫刻」が寄せられた。

セメントと綿
に恐怖がとじこめられた
眠り草の化石〔……〕
世の中にいちばんばかげたもの
いちばん欲しいもの
寝床のなかの物
奇妙なみつけもの
肉体*8

 また企画者の江原は「狂気にうちかつ作家」と題し、次のように述べていた。

荒川は狂人にみえる。少なくとも、間歇的に、あふれるような狂気に襲われることはたしかである。けれども、かれの作品の、あのコンクリートの量塊との格斗は、そのまま、狂気の間歇泉をおしとどめ、鎮めようとする、作家の祈りであり、鎮魂のうたであり、たたかいなのである。この作家は、「制作」をやめれば、発狂するほかないのだ。*9

 これら一連の引用に見られる「胎児の死体」(篠原)、「未分化で原初的な事柄」(中原)、「狂気」(江原)といった表現は、この時期の荒川の作品および精神状態を的確に射ているものと言える。事実、荒川自身、『棺桶』シリーズを制作した58-60年頃には極度の精神的不安の発作に見舞われ、突然泣き出したり大声で歌いだすなどしていたからである。江原がこのように書くことができたのも、1960年の「お話会」(吉村アトリエ)などでこの時期の荒川と接することができたからに他ならない*10。作品を創ることを通して、荒川は「不安」と闘っていたのだろう。荒川自身の言葉を引く。

大まかにいえば変身の仕方の新しい方法を見つけたいのだ。過去の人たちのやった過程はみんな信じられないし、どうもね。だからって機械に託せないし、虫にもなれないし、〔……〕どうにもなれないのじゃだめだし、なにかにならなければだめだというのでね。*11

僕は、本当は新しい科学をやりはじめていたんだ。もうもっと小さいときから、永遠に生きてやろうと思っていて、それで追い詰められていたんだ。およそ当時の芸術とか科学とか哲学なんかに興味はなかった。この体を使って何かやろうと思っていて、それでこんな変なものができちゃった。つくっても、自分でつくったとはとうてい思えなかった[…]。*12

 1960年〈ネオダダ〉を除名された荒川は、その11月に日本大学芸術学部江古田祭における映画研究会(淺沼直也、城之内元晴、佐藤雅夫ら)とともに、映画『操行ゼロ』(1933)の上映会と称したイベント《JASAへの招待》の企画に参加している。このイベントに招待された者の中には、澁澤龍彦東野芳明らがいた*13。東野はこのイベントについて、1979年『みづゑ』で次のように回想している。

某大学の芸術祭から「操行ゼロ」という題の催しの招待状を貰った。会場に入ろうとすると、マッチやライターをすべて取りあげられ、懐中電灯で暗闇の部屋に通され、木の梯子を上り、坐らせられる。全くの闇。まわりにほかの観客がいるのが気配で分るだけ。なにひとつ起らない。いくら待っても、ただ闇と沈黙がつづくだけである。瞳孔は開きっぱなしだが、ほとんど何も見えない。しまいに、観客がパニック状態になる。誰かが、かくし持ったマッチをつけて、日常の意識が驟雨のように返ってきたときの安堵感。見ると梯子はとりはずされている。われ勝ちに下に降りたほくらの足許に、うずくまったまま動かない肉体がひとつ。アラカワは、朝から、この全くの闇の中で、仮死体を演じつづけていたのだった。真昼の校庭にとび出したときの、空虚な爽やかさ!*14

 このように東野は述べ、当時の荒川と〈ネオダダ〉の差異を次のように記している。

当時、篠原有司男、吉村益信らの「ネオ・ダダ・オーガナイザーズ・グループ」は、頭をモヒカン刈りにし、廃物アートをまきちらし、ボクシング・ペインティングに身を投じ、権威の否定と情念的な自爆的行為とのごったまぜのアクションにふけっていたが、アラカワの、何ひとつ起こらなかった、あの反イヴェントは、グループに対する負の挑戦状だった。*15

【日本脱出――ニューヨークへ】
 1961年12月、荒川はNYに到着する*16。渡米を勧めたのは、当時読売新聞社文化事業部長だった美術記者、海道日出男(1912-1991)だった。出光興産の創業者、出光佐三が航空券を贈ったらしい。ビザの保証人は雪の研究者、中谷宇吉郎。海道は戦後日本美術界のプロデューサーといった人物で、岡本敏子氏によれば、空襲で失われた岡本太郎の『痛ましき腕』の再制作を太郎に熱心に勧めて実現させた張本人である。*17
 荒川の回想によれば、〈ネオダダ〉脱退後、路頭に迷っていたら海道氏が「早く出て行け」「荒川、お前はここにはいない方がいい」「いい人探してやるよ、そのうちに」と言い、出光氏を紹介したそうである(つまり出光孝子は海藤を紹介したが、孝子の父・出光佐三を紹介したのは孝子ではなく海藤だったという捩れ) 。出光氏は荒川を赤坂の高級料亭に誘った。そこで荒川は一番安い料理を注文し食したところ、出光氏に信用されたらしく、その翌日にはお金が届いたという*18。(またこの縁で、荒川が出発する前、出光の娘・出光孝子(東野芳明の妻)が荒川の作品を引き取り、彼女が勅使河原宏草月会館)に預けた。これが2000年代になってようやく見つかり、修復を経て現在も現物を見ることが可能となっている)。
 当時の為替レートは一ドル三六〇円であり、渡米は容易ではなかった。そんな折、荒川を支援したのが瀧口修造であり、海の先のデュシャンだった。渡航直前の荒川に、瀧口は一冊の本を手渡した。そこには六万円入りの便箋が挟んであったという*19。瀧口はデュシャンを日本にいた時から紹介し、荒川の手紙を推敲しただけのものを渡米2,3年前から約2-30通もデュシャンに送っていた。瀧口の推敲を荒川が手直しすることもなく、赤入れが入ったままの手紙をデュシャンは受け取っていたので、荒川に会う前から変な奴だと思っていたらしい。


出発前の飛行場にて。瀧口と荒川。

 NY到着後すぐに荒川は瀧口の紹介でデュシャンに出会う。荒川は瀧口に教わった番号に電話をかけた。

「アラが名字で、カワが名前だろ?」――「まあ、そうだ」。
「アラ、おまえ今ポケットにいくらもってる?」――「12、3ドル、ポケットにある」。
「ワシントン・スクエア知ってるか?」――「知らない」。
「36っていうバスに乗れ、グリーン・ハットとグリーンのコートを着て、ワシントン・スクエアのアーチの下に俺は立ってる。爺でそんな奴を見たら俺だから来い」。*20

 こうして二人は出会い、近くの安いイタリアンレストランに入り、二人でトッピングなしのパスタ(spaghetti without sauce:デュシャンの表現)を食べたという。なぜspaghetti without sauceだったのか。日本人は白米を何もつけずに(rice without any)食べるだろ?というデュシャンなりの遊びである。これはその場のユーモアであり、真意としてはこれからの貧乏暮しに備えて、ということだった。デュシャンとはその後もこのレストランに一緒に行ったらしい。それでも着いてからの二週間は、デュシャンは徹底的に荒川を援助し、働かなくても済むようにしてくれたそうである*21。ただ、芸術に関する会話では、まず初めに必ずデュシャンは「芸術だけはするな」と言っていたらしい。

 彼と過ごした最初の6ヶ月でオノ・ヨーコと出会った。ヨーコは彼女のスタジオを荒川に紹介し、貸し与えた。そのスタジオにデュシャンアンディ・ウォーホルジョン・ケージ など蒼々たるアーティストを連れてきはじめる。荒川の回想によると、みな「どうしてデュシャンはお前のことをあれほど褒めるのだ」と不思議でならなかったらしい。ウォーホルはそれから毎週のように荒川を食事に呼ぶようになった。ケージは趣味(半ば研究)のマッシュルーム狩りに誘った。ケージとのキノコ狩りでは、「お前、これわかるか」と音の話をケージがすると、「ああ、わかるよ」と荒川は答えたらしい。するとケージは「お前の若さでなぜこのよさがわかるんだ!?」と驚いたらしい。*22
 ウォーホルの紹介もあり、ドイツの画商アルフレッド・シュメラーが、荒川のスタジオを訪れ「何でもいいから何かないか」「俺はまだ一週間いるから」と声をかける。荒川は建築の図面(ブルー・プリント)を拾い集めた。それに荒川がサインして壁にピンで留めておいたところ、シュメラーが再訪した時「これ、俺に売らないか」と切り出され、一枚あたり「75ドルか100ドル」と言われたらしい。三日ほど経つと「全部売れた」と連絡が入り「あと10点ぐらいないか」と言われ、一気に話はトントン拍子にすすみ、お金には早くも困らなくなった。デュシャンはその作品を見て「これ、お前の名前書いてあるな」「これならいい」と荒川に言った。シュメラーはさらに荒川の作品をヨーゼフ・ボイスに購入の仲介を果した。*23
 また1963年頃、仏・伊・米などを旅行していた岡本太郎が、NYの荒川の下宿先を訪ねた。渡米以前から太郎は、(荒川によると)デュシャンとは違って「母親のように」何かと面倒を見てくれたらしい。そんな太郎がNYの部屋に入り、洗面所に積み上げられた洗濯前の下着の山を見つけると、しばらくじっと凝視するなり、「これが君の今度の作品か?」と真顔で荒川に聞いたそうだ。事の真相が知れた途端、二人は爆笑したらしい*24。執筆者の私が悪乗りするならば、ボルタンスキーはアラカワに先を越されていたのかもしれない――ガラクタがアートになる時代。


クリスチャン・ボルタンスキー「No Man's Land」
(これは古着=遺物ではなく、洗濯物の山…?これをホロコーストとして想像してしまうことが「囚われの想像力」(岡本源太)なのだとすれば、むしろ洗濯物の山とも見ることができる方が健全なのかもしれない、ひょっとして)

【マドリン・ギンズとの出会い】
 ギンズと荒川は1962年に出会う。当時すでに経済的な問題は解消されていたが、ビザが無いために学校に入学する必要があった。そこで荒川はブルックリン美術館のアート・スクールに行くことになる。そこにマドリン・ギンズが来ていた。当時を振り返って荒川は次のように述べている。

ブルックシン・ミュージアムにアートスクールがあり、ビザの件でその学校に行ったときに出会ったんですけど、彼女は少し頭がおかしかったんだ(笑)。いわゆるノイローゼといわれるもので……。ただそうした病気は治せる自信があったんで、治してやろうと思ってこうしているうちに、知らないうちにこうなっちゃった(笑)。不思議なことがたくさんありましてね(笑)。*25

 ギンズは絵も描いていたが、荒川が「お前全然才能ないから、やめろ」と言ったところ三週間ほどでやめてしまったらしい。荒川はビザがおりるなり、一年もしないうちにアート・スクールを辞めた。このような出会いを経て、荒川はギンズとともに1963年、「意味のメカニズム」プロジェクトを開始する。彼女との共同探究および度重なるデュシャンとの交流によって、荒川は日本にいた頃のような「自己閉鎖的な」(東野)ところから抜け出す契機を掴むことができたようである。
 しかしそもそも荒川がこのようなプロジェクトに専心しようと決心したのにも、やはりデュシャンの影響がみられる。ギンズとの『意味のメカニズム』のプロジェクトの萌芽を掴みかけた時期、デュシャンは毎週彼ら彼女らの作品を見にスタジオに訪れ、「お前はキャンバスを使う。絵具も使ってる。ペンシルも使ってるけど、これは絵じゃない」と言った。この言葉を聞き、荒川はこれを徹底的にやろうという決心をしたようである。*26

アメリカの文脈】
 戦後アメリカのアートシーンを社会構造の変化も含め、教科書的に振り返っておきたい*27。文脈は前後するが、先述した東野による渡米後の報告に密接に関わってくる文脈である。
 ボードリヤールによれば、消費が欲求の充足を目的とし、商品やサービスの使用価値を消費する経済的行動である以上に、それらを他者との差異を表示する記号として消費する心理的・象徴的行動となったこと、例えばヴィトンのハンドバッグは小物入れとしての機能のためではなく、あのデザインを自らの他者に対するステータス・シンボル(記号)として「消費」すること、これが社会全体へと波及し、消費対象となるすべてのものが記号化される社会、それが消費社会である。そのような社会では、記号化された商品の前に、社会の構成員は均質化されている。
 アートシーンでこの消費社会に真っ先に反応したのがポップアートだった。それは署名入りの消費されるモノとしての芸術という独自の地位を得るに至った。このように芸術作品が記号化されるという事態は、デュシャンの『泉』によって先取りされていた。レディメイドなもの、それ自体に芸術的価値など微塵もないものに、「署名」がなされるだけで差異化され、高値が付くという事態である。
 1940年代前半、第二次世界大戦の戦火を避けて、ヨーロッパからシュルレアリスム抽象絵画バウハウス関係者など、美術家、音楽家、建築家、デザイナーらあらゆる種類の前衛芸術家がニューヨークに亡命して来た。彼らがアメリカに来たのは、戦争で破壊されておらず、自由が保障されており、国が豊かで芸術に大金を投じる大富豪のパトロンたちが世界のどこよりも大勢いたからだった。アメリカの若い芸術家たちにとっても遠い地にいた最先端の作家たちが近くに来て指導してくれる絶好の機会となった。
 このような状況があって、40年代後半から50年代にかけてまずアメリカで(そしてアメリカが芸術において初めて世界に影響を与えることとなった)、ジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマン、マーク・ロスコらの抽象表現主義が注目された。ポップ・アートはここで登場して来る。ロバート・ラウシェンバーグジャスパー・ジョーンズアンディ・ウォーホルらである。特にラウシェンバーグ、ジョーンズらの試みは、消費社会の廃物・ガラクタを再利用したレディメイドジャンクアートの無意味な作品群によって、ハロルド・ローゼンバーグらの批評家から「ネオダダ」と命名された。東野が伝えたのはこの文脈であった。 
 荒川がNY生活を始めた頃、ポップアートは絶頂期にあったが、60年代半ばにはジョセフ・コスースらのコンセプチュアル・アートが注目を集めた。コスースの『ひとつと三つの椅子』(1965)は、シンプルな木製の椅子とその写真と言語記述を同時に提示するものである。このようなコンセプチュアル・アートの動向が、荒川にどのような影響を与えていたのか(あるいは与えていないのか)、現段階ではわからないが、『棺桶』から後述する『意味のメカニズム』への展開を考える上での比較対象として重要であると思われる。

参考文献・資料・ウェブサイト
・『荒川修作-60年代立体作品展 カタログ』、gallery ART UNLIMITED、2008年。
・『みづゑ』1979年7月号。
・『荒川修作展図録 絵画についての言葉とイメージ』、西武美術館、1979年。
・『芸術新潮 大特集 さよなら、岡本太郎』1996年5月号。
塚原史荒川修作の軌跡と奇跡』、NTT出版、2009年。
・黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』、grambooks、2010年。
・「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ 荒川修作インタヴュー 2009年4月4日」、インタヴュアー:由本みどり、富井玲子、書き起こし:池田絵美子。
http://www.oralarthistory.org/archives/arakawa_shusaku/interview_01.php
・gallery ART UNLIMITED web site.
http://www.artunlimited.co.jp/artists/shusaku-arakawa.html
・2008/3/5 朝日新聞
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200803050181.html

*1:「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ 荒川修作インタヴュー 2009年4月4日」

*2:同上

*3:東野の伝えたアメリカの動向によって、〈オール・ジャパン〉は〈ネオ・ダダイズム・オルガナイザー(ネオダダ)〉と改称されたが、グループ結成に至る過程はまったくもって日本独自のものであり、単に名称だけをアメリカ・ネオダダから借りただけである。

*4:吉村は富裕層に生まれ育ち、自身も芸術家でありながら、自らが結成したグループのパトロン的存在として活動していた。それゆえ新宿の吉村アトリエは、当時の東京のアーティストたちの交差点的位置を占めていた。

*5:黒ダライ児「年譜」pp.23-27. 黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』、grambooks、2010年、所収を参照。

*6:美術手帖』1960年11月号。塚原史荒川修作の軌跡と軌跡』NTT出版、2009年、p.34. 参照。

*7:篠原有司男『前衛の道(完全復刻版)』、ギュウチャン・エクスプローション!プロジェクト実行委員会、2006年。塚原史、前掲書、p.35. 参照。

*8:瀧口修造「なぜの彫刻 荒川修作のための断片」(1961年)、『荒川修作-60年代立体作品展 カタログ』、gallery ART UNLIMITED、2008年、所収。

*9:江原順「狂気にうちかつ作家」(1961年)、『荒川修作-60年代立体作品展 カタログ』、gallery ART UNLIMITED、2008年、所収。

*10:黒ダライ児、「年譜」、前掲書所収、p.28. 参照。

*11:美術手帖』1961年8月号。塚原史、前掲書、p.40. 参照。

*12:塚原史、前掲書、pp.211-2.

*13:黒ダライ児、前掲書、pp.156-7. 参照。

*14:みづゑ』1979年7月号、pp10-11。

*15:同上、p.11。

*16:荒川は飛行機が空を飛ぶというのがどうしても信じられず、アメリカに到着するまで怖さのあまり機内でずっと中腰でいた、という笑い話を伝えているのは大岡信である。『みづゑ』1979年7月号、p.12. 参照。

*17:塚原史、前掲書、p.42. 参照。

*18:塚原史、前掲書、p.219. 参照。

*19:だからといって瀧口自身もそれほど裕福だったわけではない。むしろ食生活や部屋代の工面にも苦労していたらしい。(「荒川修作インタヴュー」参照)。

*20:荒川修作インタヴュー 2009年4月4日」参照。

*21:塚原史、前掲書、p.44, 220. 及び「荒川修作インタヴュー 2009年4月4日」参照。

*22:「荒川インタビュー」参照。

*23:「荒川インタビュー」参照。

*24:荒川修作「私の岡本太郎 思想家・太郎かあさん」、pp.80-82.『芸術新潮 大特集 さよなら、岡本太郎』1996年5月号、所収

*25:塚原史、前掲書、p.221.

*26:荒川修作インタヴュー」参照。

*27:以下のまとめは次を参照。塚原史、前掲書、pp.50-52.