夏の終わりに(1)―テラン・ヴァーグ、デリダ的亡霊、モニュメント

 現在、使用が留保されていること以外、なんら積極的に意味づけられることのない土地。ただ余白として現在その姿を晒している空き地。使用が留保されるどころか、使用可能性の見通しもつかない土地――それは「土地」として認識されてすらない。

 このような不確実な領域をイグナシ・デ・ソラ・モラレス=ルビオーはテラン・ヴァーグと呼んだ(『Anyplace 場所の諸問題』)。この不確実な領域の現在性は、未来への期待と過去への追憶に引き裂かれ、宙づりにされる。そして、われわれ自身の現存在の非在感からくる「不安」という感情(ハイデガー存在と時間』、拙著「「不在」への回帰―「No Man's Land」への一つの視座」参照)が、このような不確実な領域に充填される。

 幽霊は、このようないかがわしい領域にはびこる。その幽霊を構成するのは、その実体ではなく、物象化され、辺りを浮遊する解釈、憶測つまりウワサである。うわさは不安を発生源とする。そのいまだ出現せざる実体への恐れと不安が、あらゆる微細な物質にすら、不在の対象たる幽霊の痕跡を読み取ってしまい、浮遊する塵芥はソレが実在することの確かな物的証拠として扱われ始める。

 こうした不安を基にした過剰な読み取りは「文化」と呼ばれるものの象徴作用と無縁ではない――文化とは情報操作=解釈行為である。情報操作は、文字通り情報を物質的に稼働=操作=管理=誘導する。情報操作=解釈としての文化的営為とは、この得体の知れない幽霊のような存在――われわれ自身の不安――の不在の核を、あとから寄せ集めた些細な物質的断片によってなんとか表象=代理=捏造し、埋め合わせる=抑圧する活動、すなわち歴史形成のメカニズムである(「表象」と「抑圧」の表裏一体性、デリダマルクスの亡霊たち』)。

 情報操作としての文化的営み=解釈行為の性質は、その解釈に則した物質的痕跡=意味を、時間的順序を転倒して事後的に生み出すどころか、解釈自身がまさに物質的実在として増加し続けていく(その真偽起源はともあれ、それが語られたという物質的事実は現存し続け否定され得ない)。これは検閲機構を含むばかりか、それを塗り変える機能すら持つ(解釈の無限進行・増加については、ベルクソン『思惟と動くもの』も参照)。

 不安の起源にあったはずの、そもそもの幽霊とは、決して時間の流れに逆らって現われているわけではなく、紛れもなく現在にだけ知覚され観察されうる物質の微細な変容である。すなわち物質的現在として、現在ここに実在する姿でしかない。幽霊とは、未来と過去との連続性を断ち切られて(現在性の条件)初めて現象するものである(われわれが現在知覚できるものは幽霊のごとく不確実でしかない)。

 ルビオーは、かような幽霊の発生源たるテラン・ヴァーグ、つまるところ現在という不確実性をどう扱うかと問うたのだった。建築家の任務と宿命は結局のところテラン・ヴァーグを馴染みある空間へと均質に馴らし、使用可能性のある土地へと変容させることだったが、それに対して芸術(家)は、都市の生産的効率性に抵抗し、テラン・ヴァーグやヴァナキュラーな空間・場所だけが持つ特異性に魅了され、その保存のために闘っている、と彼は言う。

 しかしこうした傾向は、植民地主義の裏返しであるところの、未知なものへの憧憬というロマン主義的態度が残存しているだけかもしれない(ロマン主義の末裔)。彼らはただ、その光景を眺める特権的視点の占有を求めているにすぎず、いずれテラン・ヴァーグを埋め合わせる物質的代表(つまり「作品」という名のウワサだ)の特権的座をめぐって、覇権争いを始めかねないではないか?

 建築に限らず、未確定領域を支配的な歴史の連続性へと領土化するモニュメントという古くからの芸術形式と、現在の芸術はどれだけ遠ざかることができたといえるのだろうか。ロザリンド・クラウスは、写真は絵画のようなイメージの類似に基づくイコン的なものではなく、物質的痕跡としてのインデックスであると捉えている(クラウス『オリジナリティと反復』)。裏を返せば、とりたてて何も映っていなくとも(空虚でも!)、たしかにそれはある特定の時に外部の被写体から差し込んだ光が印画紙に与えた物質的変容の物質的痕跡であると写真では了解されるということである。これはくだんの痕跡としての幽霊と同様の図式である。そもそもイコン=聖像が並の画像と区別されて歴史的に扱われてきたのは、イメージの類似ではなく物資的直接的痕跡として理解されてきたから(ヴェロニカのハンカチーフ)であることを思い返せば、クラウスのインデックス説は、ビザンティンでなされたイコン擁護論を写真に焼き直しただけではないか?こうなれば、写真とて、非在化された過去から現在へ唯一残存し続ける物質的痕跡=モニュメントであることの例外たりえない。そこに思わずわれわれが見てしまう歴史という幻影=物象化された時間の姿は、過去からも未来からも切断された、現存在自身の不安が変容=物象化した姿にほかならない。

 バブル以来建設された文化施設は、そのソフトのなさで批判されている。ここで芸術に期待される役割は、この曖昧な空虚になんとか意味を充填することだった。だがその空虚なハコ自体、未来へのいかなるプロジェクト(大きな物語)も喪失し、歴史の連続性から切り離され、宙づりにされた現在という不安な領域を埋め合わせるために捏造されたものである。空白(ホワイト・キューブ)に空白(ゆうれい)が、重ね合わせられていく。塗り重ねられる空白はしかし、そのハコに向けられたとりとめのない期待や嫌悪と同一である。この重ね塗りの営為はまさに物質的過剰として存在し、増加し続けていく。文化施設というハコモノ自体、巨大な物質的ウワサなのである。幽霊と同じく、そのハコの真偽も正当性もはかりうる術はない。

 だが、幽霊は微細な物質に宿りうることにこそ、その本領があったのではなかったか。どうせ幽霊ならば、ほとんど知覚し得ないぎりぎりまで、すでに与えられた物質を微分していくことがふさわしい。どのみち幽霊は物質として実在し続けるだろうが、幽霊も物質も一貫性は期待できず不確定であるところにこそ、その本質がある。物質的現在に同時性も同一性も存在し得ない。幽霊に統一された身体はない。どこか安定した地盤に結び付けようとする足もない。幽霊は幽霊に徹せよ。幽霊について語るのではなく幽霊として全うできるかが問われているのではあるまいか。

 文化も芸術もその公共性、パブリック・インタレストを果たすだけなら、たかだかピンボケ写真一枚で用は足りる。ヒマなのにみずからが存在するという過剰な逆説に不安を抱えた人間が、そんな写真であれ、周辺に無数の言語を物質的に積みあげ、ウワサと解釈の文化的生産すなわちインタレストの生産に努めてくれるだろうから。

*参考文献は煩雑さをさけるため、必要最小限に留めた。基本的にデリダマルクスの亡霊たち』、磯崎・浅田編『Anyplace』、田中純『都市表象分析Ⅰ』を補助線としている。