Bergson「D.I.」抜粋

ベルクソンはその処女作ともいえる『意識に直接与えられたものについての試論』で、自由を論じている。しかし自由が論じられるのは第三章と結論の部においてであって、それまでの第一第二章は、もっぱら当時の論客たちの主張をベルクソンなりに整理し、批判点を挙げる、という理路である。

そうして整理された結果、ベルクソンが言うのは「外的延長と内的持続の混同」をきちんと峻別しなければならない、ということだった。自由が否定的に論じられる、あるいはカントのように物自体として神秘化され、不可知のものとされるのは、この峻別がなされていないからだ、と言う。より正確には、内的持続を外的延長に還元しているからだ、と。

(当時の)自然科学は、ある意味この峻別をきちんとしていたとベルクソンは言う。

「科学の主要な目的は予見し計測することである。外的延長とは計測できるものであり、いくらでも分割できるもののことである。しかるに、物理現象は、それがわれわれのようには持続しないという条件でしか予見されないし、計測は空間についてしかなされない。だからここでは、質と量、真の持続と純然たる延長との断絶がおのずと遂行されていたのである。」(p253)

ただし、とベルクソンは言う。

「われわれの意識状態については、それらに外的事物の相互外在性を得させるという錯誤を維持するほうがわれわれには得策である。なぜなら、このような区別、と同時にこのような固化によって、われわれは、意識状態の不安定さにもかかわらず安定し、そこでの相互浸透にもかかわらず互いに区別された名称を、この状態に与えることができるからである。このような区別と固化によって、われわれは意識状態を客観化し、それをいわば社会的生の流れに参入させることができるのだ。」(p253)

この引用から気になる言葉をいくつか。「固化」という言葉。これは「結晶化」とも「客観化」とも言われ、あるいは「名称を与える」という表現から「名付け」と考えるでも無理はなさそうである。

内的持続の、絶え間ない創造性、各瞬間は相互に異質でありながら相互浸透する内的緊張を重要視するベルクソンにとって、「名付け」られた状態とは極めてstaticな、静的な状態であり、自由を論じていくうえでは批判しなければならなかった。自己同一性の思考とは、このようにstaticに思考であり、決して真の自己には到達できないというのである。

こうして見ると、「真の自己」と「偽りの自己」とでも言うべき対立をベルクソンは明確に打ち出している。これも結局は「外的延長と内的持続の峻別」から導出されたものだ、ということは言うまでもない。

「結局のところ二つの異なる自我があることになる。そのうちの一方は他方の外的投影のごときもの、その空間的で、いわば社会的な表象であろう。」(p253)

「われわれは稀にしか自由ではないのだ。大抵は、われわれは自分自身に対して外的に生きているのだし、われわれはみずから自我について、その脱色された幻影、純然たる持続が等質的空間のうちに投射する影しか覚知しない。したがって、われわれの生存は時間よりもむしろ空間のうちで展開される。われわれはわれわれ自身のためというよりも外界のために生きるのだ。われわれは思考するよりもむしろ語る。われわれはみずから行為するよりもむしろ「行為させられる」。自由に行為するとは、自己を取り戻すことであり、純然たる持続のうちに身を置き直すことなのである。」(p254)

ベルクソンに言わせれば、「社会的表象」たる「名称(名前)」は「影」なのである。これはとても面白い表現だと思えたのは、知り合いの方に頂いた論文を読んだということが大きい。「影」という表現の展開可能性を感じることができた。その方にはとても感謝している。

またこの箇所はヘーゲルの否定と比較して読んでみるとどうだろうか、と思っている。ベルクソンヘーゲルをどの程度読んでいたのか、理解していたのかがまだ僕にはわからないし、ヘーゲルをまだ読解していないから現状ではメモとしておく。

そのほかにもたくさん示唆に富む箇所はあるが、とりあえず次の文章。

「感知できないほど微妙な段階を経て、諸要素がそこで相互浸透するような具体的持続から、諸瞬間が併置されるところの象徴的持続へ、したがって、自由な活動から意識を伴った自動運動への移行がなされる」(p261)

この引用の前では、内的持続の直観へと至るために「採るべき第三の途」の第一歩は「みずからの生存のなかで何かしら重大な決断を下した瞬間へと思考によって立ち戻ること」であると語られている(p260)。このような「重大な決断を下す」ときに限らず、「メロディ」や「音楽」の比喩でもわかるように、われわれは実は日常の気づかぬ場面で、持続を感じているということでもある。分かりやすく言えば、何かに感動しているときなどは、われわれは持続の中にいるのだと言えるだろう。しかし社会的生を営む私たちは、常に感動しっぱなしで生きてはいない。感動しっぱなしは素晴しいことかもしれないが、実際もし感動しっぱなしなら社会的生には不適合だと言えるだろう。

こうしてみると、「感知できないほど微妙な」「移行」によって、真の自己から「影」へと至る途は、その逆もあるということが言える(ベルクソンはこのことも勿論言っている)。私たちの営む日常とはこの「持続」と「影」のあいだを、それと気づくことなく、絶え間なく揺れ動くことから成り立っているのではないだろうか。持続に浸りっぱなしはある意味「夢想の人」であり、「影」に徹する人は「自動人形」と『物質と記憶』の頃のベルクソンなら言うであろう。「実践感覚」を備えた「良識」のある「行動の人」であるためには、この絶え間ぬ揺れの中にいなければならないはずである。


ここでカントとの対比がより浮き彫りになるのではないだろうか。しかしそれは『物質と記憶』の読解を待たなければならないと思う。今日はここまで。