ハイデガー『芸術作品の根源』 関口浩訳 平凡社ライブラリー

決定的な書物である。

前期ハイデガーからの転回、まさにその通りの書物だという読後感。特に「真理と芸術」の章は圧巻である。静かに、足元を確かめながら歩み始めた、そのさまよいが、最後には駆け去るような、そんな印象である。

詩作が「贈与、根拠づけ、開始(原初)」という樹立であり跳躍である、という言(Sage)は震撼させられた。これだけでもう十分であった。ただ、それでもなお。

気になることがある。この本のあるくだりで、デューラーがとりあげられる。「芸術は自然のなかに潜んでいるのだから、それを取り出せる人が芸術を獲得する」というデューラーの言葉。これに対してハイデガーは「確かにそうだが、芸術は作品のなかにあるのだ」と反問する。そしてそれまでであった。

このハイデガーデューラーとのやりとりは、別にデューラー相手でなくともいいのでは?と思ってしまう。デューラーの名前を挙げなくともいえることではないのか。デューラーの名を挙げること、これはなにか示唆するところがあるのではないか、と想像をめぐらせてみる。

ハイデガーは議論のなかで、たびたび神殿や古代悲劇などをあげつつ、神を語る。なにか、ひっかかる。

詩作とは投企する発言である、と言われる。この投企しつつの発言は、「言えることを準備しながら同時に言えないことを言えないこととして世界にもたらす」。この「言えないこと」、すなわち「語りえぬもの」とは、何なのか。ウィトゲンシュタインの足音が聞こえてくる。

投企しつつの発言とは、「神々のあらゆる近さと遠さとの場所の言」であるとも言われる。「近さと遠さとの場所」とは、いったいどんな場所なのか。キルケゴールの熱い吐息が聞こえてくる。

キルケゴールはこういっていた。「近くで戦うためには、遠くにいなければならない」、と。この奇妙な、逆説的な場所。それを「音響学的構造」と定義していたのが懐かしい。この奇妙な場所で、信仰の騎士は黙してはためく。「語りえぬもの」を前にしたとき、支配するのは沈黙である。しかし、ここから突如音も無く聞こえてくる、声。

絶望の病は、「メランコリア」に他ならない。アルブレヒト・デューラーの「メランコリア」がいち早く想起される。しかし、デューラーは他にも、ある作品を残していた。「祈りの手」である。「語りえぬもの」について、確かに人は沈黙する。しかし、祈る手は、声なき祈りを神に奉げている。それは、静謐にして雄弁な、しかしけっして駄弁ではなく。だから。

ハイデガーが『芸術作品の根源』で、デューラーをとりあげていたのは、単なる偶然ではないのだ。当たり前のことだが。