セザンヌの空白、への垂れ流し

国立新美術館でのセザンヌ展を観た。

単刀直入に。個人的にはセザンヌは好きでも嫌いでもない。よくわからない。感じる、というより考えることに忙しい。

セザンヌの技法。そのビットを思わせるようなシンプルなタッチで織り成される調和的色価、つまり明度と彩度のバランスによる遠近法。一点透視法による幾何学的構成によって空間を描き出すのとは対照的に、むしろダヴィンチ的空気遠近法のある種のラディカル化と言ったほうが適切かもしれない。(空間表象については風景画よりも静物画でのほうがより明確になると思われるが)。

部分だけフォーカスする、すると何がなんだかわからなくなるセザンヌの絵画。ひたすらタッチだけが見えるばかりである。そして、塗り残しのような空白がある。変といえば変な、気に入らない人には中途半端で気持ちが悪いだろうし、詩的なプロヴァンスの「印象」に酔う人にとっては取るに足らないような、そんな空白。しかし意外とこの空白はさまざまなディスクールを呼び込んできた。

そう、ハイデガーメルロ=ポンティのそれである。メルロ=ポンティは「絵画において思索する」というセザンヌの言葉を引用しつつ自らの哲学を紡ぎ、「もし誰かがセザンヌのように直接的に思索できたら」と言祝いでやまない哲学者はハイデガーその人であった。「絵画において、あるいは絵画的なそれのように、直接的に思索する」。これはどういうことなのだろうか。

存在論的差異、すなわち存在者と存在の差異を問いの浮上にもたらし、その差異の狭間に佇み思索を試みようとする、その人は詩人であるとハイデガーは『存在と時間』以後の『芸術作品の根源』『ヘルダーリン讃歌』で繰り返す。ロゴスの側、現存在の実存論的分析からは到達しえぬ、真理をつかむための間接的手段として詩に目を向けたハイデガー。詩人あるいは芸術家に存在論的差異の乗り越え、ロゴスを越える直接性、があると考えた、わけだが。メルロ=ポンティも、この空白とモデュラシオンに「見えないもの」を探り、語ろうとする。「哲学は間接的にしかそれを語ることができない」と言うメルロ=ポンティだから当然である。

ふたりがセザンヌに観るその「直接性」。それはタブローにあらわれたものが「間接的」にその「直接性」を感じさせているからだが、なぜこのようなことになっているのか。鍵は「構築的ストローク」と呼ばれるセザンヌその人の技法にあると思われる。

「構築的ストローク」、それは「反復」されるそれ自体は単調なタッチの積み重ねを指す。あるセザンヌの解釈者はこの「反復」的技法に、セザンヌの性的葛藤や不安の表れを見、その昇華としてこの技法を理解しようと試みている。しかしこれでは単にフロイト理論をパラフレーズしただけである。ハイデガーメルロ=ポンティが「直接性」を感じたことの説明には不十分であろう。

精神分析的用語や理論を持ち出すことなく、シンプルに考えてみればこうなるはずだ。「絵画において思索する」というセザンヌの特に風景画で色濃く現れる「心的風景」。写真家杉本博司氏の「僕は自分の頭のなかを撮っているんだ」という言葉をヒントにしたい。セザンヌは絵画において自分の頭の中を描こうとしていた、と仮定してみたいのである。仮定などと大上段な話ではなく、これはもっとも自然な流れだと思う。

では、頭の中はどうなっているのか。「印象」という刻々と移ろい行くものをキャンバスに刻印するにはどうすればよいのか。まどろっこしい所作は削ぎ落とされるだろう。印象の変化とタッチの間隙をゼロにすること、これである。

この場合、画家は機械に限りなく接近するのではないだろうか。印象に忠実に、現象学的記述を素直に実践すると、人間は非人間的になる。セザンヌの思索が、二人の言うような「直接的思索」であるならば、それは逆説的にも通俗的理解としての「思索」とは異質な、ある種の機械性、非人間性を帯びたものになるというのは興味深いと思われる。

狂った機械のような、距離ゼロを欲望する技法。距離ゼロという理念において、セザンヌハイデガーは共鳴するのかも知れない。「存在の一義性」というのがそれである。

ただし、これ不可能なものとしての理念だと思う。「思考と存在の一致」は不可能であり、差異は消えない。しかし差異があるからこそ、その距離を埋めようと、理念への欲望が尽きることなく湧き出る。セザンヌの空白、それは存在論的差異の乗り越えではなく、乗り越えの不可能性を否応なくみせつける、断絶としての空白ではないのだろうか。直接性というのは夢である。それが実現されることは在り得ない。理念でしかないもの、言葉でしかないもの、にもかかわらずそれを欲望することができる人間的欲望である。