生命哲学memo1

自己が自己に触れるという経験
→キアスム的反転(キアスム的可逆性)としての「肉」
→「蝶番(折り目)」としての肉の概念
←しかしこのキアスムを可能にする超越論的平面の必要性
存在論的に先行する総体的一的場面
→自己と他者を一気にとらえる自己ならざるものの視点
→偏在する視点=偏在する「蝶番(折り目)」=環境的自己触発
       =襞=生命のバロック
ex)弁証法的綜合としての「即」(ヘーゲル=西田=ひろ松)
  現象学存在論(徹底的受動)としての地平化しえない内在
→「即」としての「一性」=「生命」
→超越論的場=virtuelな平面=無底の底

無限の折り込み、無の内在化、多孔空間

フラクタル的に無限重合しその内部で微分的な発生が起こるような内包=強度体としての場所

→非人称的超越論的主体性、内包=強度的スパティウム

生命における自己=自己生成系であるシステムの主体、を把握するときに、「自己による自己の触発」と「自己による自己の触発に基づいた観察」が不可欠。
→自己が自己に触発として関わり、そこで自己が自己を観察し記述するということが、自己が存在し自己を認識することを可能にする。

 ①自己/非自己をまたぐ俯瞰(内部から内/外を限定)
 ②環境総体の俯瞰(環境からの自己触発・観察記述)
     ↓
   俯瞰的視点 → <重合:直観> ← 個体の視点
              ↓
              ↓析出(齟齬として)
              ↓    
            生命的主体性

「そこでは自己が定立される以前に、拡がりの総体のなかで自己が自己を探る行為がそもそもあり、そしてそこでの接触や触発によって、自己が設定できることになる。そうであるならば、そこでは対象化される自己以前の自己が、対象としては定位されることなく遍在し、そこで「接触」という行為が成立することによって、自己が限定されるはずである。」

「生命の視線は、そこで大域的(global)な全体を押さえるものでありながらも、しかしそれは局所的(local)な地点から世界をとらえるものでしかありえない。大域的俯瞰と局所的視点との齟齬・錯綜〔=二重性のパラドックス性〕…。」