『物質と記憶』について

ベルクソンの主著の中でも最も難解であると有名な『物質と記憶』。確かにそのあまりのイマジナリーな理路は、哲学書を読む態度で臨むと面食らってしまう。あるいは、その理路にのって、わくわくしながら読む人もいると思う。僕自身は、初読においてすらすら読んでしまった。ただ。ただ読み終わった途端、胡散霧消してしまった。これが、僕の『物質と記憶』体験だった。読了したあと、一体これは何を言っているのか、というわからなさだけが残るのが特徴ではないだろうか。かといって、厳密に、比喩まで解釈する態度で、分析しようとするとこれまたわからなくなる。個々の概念はその理路において揺れ動き、厳密さを求めようとすることが馬鹿馬鹿しく思われても仕方ないくらいだ。このことをどう考えるべきなのだろう。

もう何度読んだだろうか。一ヶ月弱でもう五、六回くらい熟読しているが、いまだにわからないところが多い。しかし概要はなんとなくつかめてきた。なぜこのような「物語」を書いたのか。その答えに核心をもててきた。

こう言ってしまっては、元も子もないが、ベルクソン哲学を体験するためには「物語」がうってつけなのだと思う。だからベルクソンは「物語」を書いた。(もちろん単なる物語では済まないのがこの本だけれど)。さまざまな物語がここに当てはまる。小説、漫画、映画、落語、漫才、音楽、etc. ベルクソン哲学の根幹をなす「持続」を「直観」するには、物語を読んでいる状態に身を置いてみれば手っ取り早いのだと思う。こう確信しつつあるのは、文学研究に触れたことが大きい。

文字の断片が集積しているだけにすぎないものを、どうして味わうことができるのか。断片でしかないのに、なぜそこに物語の「流れ」つまり「筋」というものを感じるのか。それを説いているのがベルクソンの『物質と記憶』である、と簡単な紹介をして、今日は終り。