Humeと力能

 Humeは因果関係の必然性を否定する。因果関係の必然性が主張される場合、その結合を(必然的に)生み出す力能が主として原因にあたる事物に付与されており、このことが結合の必然性を担保しているとHumeは分析した。そこから、Humeは因果関係の必然性を否定するにあたって、力能の観念をも否定することになる。ここではこのHumeの理路を批判的に読解する。そしてこの議論を踏まえた上で、私は力能が存在することを結論したい。では、はじめる。

 Humeはどのような姿勢をとっていたかをまず要約しながら見ていきたい。Humeは「二つの事物が必然的に結合しているとわれわれが言うときの、必然性の観念とはなにか」と問う。そしてその探求の第一歩目は「原因と結果という必然的結合関係に置かれている二つの事物に私は目を向ける」というようになされていた。このとき、Humeは第三者の視点に立っている。そしてここから「私は原因や結果といわれる二つの事物をそれぞれ観察したが、どちらにおいても必然性の観念を得ることはなかったし、原因といわれる事物に結合を生み出す力能のようなものを見出すことはなかった」と結論する。
 注目したいのは、Humeは徹底して第三者の視点(テオリア的態度)で語っている点である。第三者は二項を観察する。そして「第三者から見れば、力能は存在しない」と言っている。では、これをHume自身の理路に適用した場合に、矛盾は生ずるか否かを見なければならない。
Humeの理論においては外的事物、感ずる私(感官)、思惟する私(反省)の三項がある。外的事物は印象として感ずる我に与えられる。感ずる我に与えられた印象はコピーされて思惟する我において観念となる。感ずる我と思惟する我は、心を媒介につながっており、それゆえ印象も観念も程度の差はあるが、心を打つ(strike)ことができる 。このような理論構造が見出せる。それを裏付けるのは、第二章第六節「実在および外的存在の観念について」におけるHumeの理路である。ここでは外界と自我の関係を第三者的に眺める思惟する我が浮かび上がっている。思惟する我は、外的事物と感ずる我の関係を第三者的に眺める。そして次のように言う。

「外在的諸事物は、それらが惹起する(occasion)われわれの諸知覚によってのみ、われわれに知られるようになる。」

「一般的に言って、われわれは外的諸事物をわれわれの諸知覚と特に異なるものと想定するのではなく、ただ単に外的諸事物に異なる関係、結合、持続を帰するだけである。」
 
 思惟する我が見出すのは、外的事物が感ずる我に知覚(あるいは印象や観念)を「惹き起こす(occasion)」という関係である。それを見出しているから、外的事物と感ずる我の知覚は異なるものではないと言えるのである。
 さて、ここで解釈が必要である。思惟する我が見出すoccasionとは何だろうか。ここでoccasionは動詞として用いられており、「〜の誘因となる、惹き起こす、(人)に〜させる」の語義をもつ。したがって思惟する我はoccasionという表現によって、事物に能動的な能力を、感ずる我(感官)に受動的能力を見ていると考えて間違いなさそうである 。そもそも理論の出発点においてなされた「打つ(strike)」という表現も、「惹き起こす(occasion)」という表現と呼応するものである。ただしこの関係が必然的であるとは言っていないけれども。
しかしこのようにHumeを読むためにはまず外的事物、感ずる我、思惟する我という三項区分が妥当な読解とならねばならない。この区別に問題があると批判があるかもしれないのである。
 まず外的事物と自我の区別についてみてみよう。しかしこの区別は先の引用から保証されると思われる。Humeは一つ目の引用で、外界の存在を確保しようとしている。なぜなら思惟のわれわれが知覚し思惟する対象は印象か観念なのであるが、それだけでは一切が主観的なものになってしまうからである。つまり観念論になってしまうからである。したがってこの区別には問題はないであろう。
次に自我の二区分、すなわち感ずる我と思惟する我の区別である。自我は一つであってHumeは二つに区別していない、という批判があるかもしれない。しかしこれは誰しも経験済みの主観的自己と客観的自己の区別である。私たちは、自分自身に対して第三者的立場に立つことができる。これは自明のことである。Hume自身第一章第二節で「Division of the subject」と題して議論していることである。やはりこの区別を読み取ることは妥当であろう。
 以上から、三項区分は妥当である。次に、先の引用の二つ目をさらに分析したい。そこでは「われわれは外的諸事物をわれわれの諸知覚と特に異なるものと想定するのではない」と主張されていた。これはどういうことだろうか。外的事物と知覚(あるいは印象や観念)は異なるものではない。だが両者は同一であるとも表現されていないのである。Humeの理路からいったん逸れて、私たちの経験を参照してみよう。現代物理学は素粒子の解析をすすめている。物体は肉眼では捉えられないほどの微粒子の莫大な集積で構成されている。事物の構造は微粒子である。しかし私たちの経験が捉えるのは微粒子の集積ではない。私たちが経験するのは色や形、においや温度、手触りなど、マクロな性質である。つまり「外的事物はわれわれの知覚と特に異なるわけではないが、まったくの同一というわけではない」のである。
 ではこのギャップはいかにして生じるのか。Humeの理路に即して言おう。すなわち、微粒子の集積構造が感ずる我にマクロ性質の経験を惹き起こす(occasion)のである。事物はそのような力能をもっているのである。なぜなら惹き起こしているのだから。それは経験が立証している。

 このように、必然性の観念を否定するためにHumeが採ったのと同じ身振り(テオリア的態度)が、本人の意図に反するかのようにoccasionという力能的表現をさせてしまっていることが明らかとなった。そうであるならば、Humeは力能を否定すべきではないということになる。否定してしまっては、そもそもHumeは、そしてHumanは知覚することができないことになるからである。これはHumeの理論から生ずる矛盾であり、常識にも反する帰結である。そして知覚できるためには、力能がなければならないことが証明された。

[参考文献]
・Hume,D “A Treatise of Human Nature”.
・『科学基礎論研究』−前田隆弘「ディスポジションと第一・第二性質の区別の基礎」
・Mumford, S. “Causal Powers and Capacities”,pp265-278 in [Beebee et al.2009].