バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』(みすず書房)抜粋

関心のある箇所だけをピックアップ。

「<わたし>または<あなた>が指向する《現実》は何か?それはもっぱら《話の現実》なのである…。<わたし>は、[…]、《話し方locution》の用語によってしか定義することができない。<わたし>は、《<わたし>を含むいまの話の現存を言表している人》を意味する。それは定義上唯一の現存であり、その唯一性においてのみ有効なのである。[…]。すなわち、<わたし>は、それが含まれている話の現存によって、かつただそれのみによって同定されうるものであることである。それが価値をもつのは、ただそれが発せられる現存においてのみである。[…]。<わたし>という形は、それが発せられる言行為のなかでなければ、いかなる言語としての存在ももってはいないのである。したがってこの過程には、現存が二重に結び合わされているわけである:すなわち、指向する者としての<わたし>の現存と、指向される者としての<わたし>を含む話の現存である。そこで定義は、次のようにすれば正確になる:すなわち、<わたし>は、《<わたし>という言語上の現存を含むいまの話の現存を言表する人》である。したがって、《話しかけ》の状況を導入して、<あなた>に対しても対称的に、《<あなた>という言語上の現存を含むいまの話の現存において話しかけれる人》という定義が得られる。」pp.235-236.

「話の現存へのこの恒常的、必然的な指向が、その形と結合適性によって、あるいは代名詞、あるいは副詞、あるいはまた副詞句というさまざまな類に属する、一連の《指示子》を<わたし>/<あなた>に結びつける特徴を構成する。
 […]すなわち、<ここ>と<いま>は、<わたし>を含むいまの話の現存と共外延的・同時的な空間的・時間的実存の境界を画定する。[…]その直接指示が人称の指示子をになう話の現存と同時になされるものであることを言い足さなければなんの役にも立たない。この指向から、指示詞は、つねに一回かぎりかつ特定のものをさすというその正確をひき出しているのであって、これが、それの指向する話の現存の単一性なのである。」pp.236-237.

「根源的であると同時に基本的な事実は、これらの《代名詞的》な形が、《現実》にも、空間や時間のなかの《客観的》な位置にも関係するのではなく、これらを含む、そのたびごとに一回きりのものである言表行為に関係していて、そしてそれによって、その固有の用法を反映することなのである。」p.237.

「ことばは主体間のintersubjectif伝達の問題を、《現実》に関しては非指向的な《虚》記号の集合をつくり出すことによって解決した。これらの記号は、つねに待機の状態にあって、話し手locuteurによってその話のおのおのの現存のなかに導入されるやただちに《実》となるのである。これらの記号は、実質的な指向が欠けているために誤用されることがありえず、なにごとも断定asserterせぬゆえに真理の条件に従わず、いかなる否認を受けることもない。その役割は、一つの切り替え―これをことばの話への切り替えと呼んでよい―の道具を提供することにある。<わたし>を口に出す唯一の人物として自己を同定することによって、おのおのの話し手は、かわるがわるみずからを《主辞》の位置に置くのである。したがって、その使用には話の状況が条件なのであって、しかもそれ以外にはなんの条件もない。もしおのおのの話し手が自分自身の還元不能の主体性についての感覚を表すために、[…]個別の《呼出符号》を使用するならば、実際上人間の数と同じだけの語languesが必要となり、更新はまさに不可能になるであろう。この危険を防ぐために、ことばはただ一つの、しかも可動的な記号、<わたし>を設けたのであって、おのおのの話し手がそのつどただ自分自身の話の現存に関係するかぎりにおいて、それを自分のものとすることができるのである。それゆえ、この記号は、ことばの<行使exercice>に結びつけられているわけであって、話し手を話してとして宣言するものなのである。この特性こそ個々の話の基礎をなすものであって、それぞれの話し手はこの話において、ことば全体を自分のものとして引き受けるのである。」pp237-238

「ことばは、個人がそれを専有すると、話の現存に変化し、話の現存は、この内的指向体系―その鍵は<わたし>である―によって特性を与えられ、そして個人を、その個人がみずから話し手となって言表するときに用いるところの、特殊な言語構成によって規定するのである。したがって、指示子、<わたし>と<あなた>とは、潜在的な記号として存在することはできない。ただ話の現存において現働化されることによってはじめて、それは存在するのであって、それは話の現存において、それ自体の現存のおのおのを通して、話し手による専有の過程を示すのである。」p.238.