野田裕示「絵画のかたち/絵画の姿」展 at 国立新美術館

小春日和とも言えそうな好天に恵まれた今日は、都内へ足を運びました。目的はこの展覧会を観るためです。以下、こじつけのような感想。

多くの作品が展示されていて、野田さんの制作史も含めて楽しむことができる展覧会でした。「絵画のかたち/絵画の姿」というタイトルからも感じられることですが、野田さんのなかにある「平面」への追求が一貫して感じられる展覧会だと思います。

制作史をざっと眺めると、まず箱のようなフレームを使って、そのなかにさまざまな「もの」を配置する半立体的平面構成が続きます。その後、そのフレームを使った構成から一転し、今度はパネルをキャンバスの生地で包むという方向へ。しかも包まれるパネルには木片が入っていたり、パネル自体が削られていたり、そしてそれらがキャンバスの布地越しに現れてくる、という制作方法へと移行していきます。そんななか、僕が強烈な印象を受けた作品は二つありました。

一つ目は、「包む」段階に移行してからの「絵画の原風景」と題された作品。「絵画の原風景」とはいったいどこにあるのだろうか。そもそも「どこ」という問い自体が可能なのか、と疑問が溢れてくるタイトルです。その作品は濃密な深緑色で全体が覆われていました。そして至るところ、キャンバスがめくりはがされている。そのめくり返されたところにはさらにキャンバスがあり、それもさらにめくり返され、最後に出てきたキャンバス地はパネルにめり込んでいる。こんな箇所が作品全体に偏在しているわけです。「めくる」という行為が「平面」の物質性を喚起すると同時に、「めくる」という行為にどこかエロティシズム、あるいは欲望を感じてしまいました。仮にそうだとするなら、それは野田さんの「平面の物質性」への欲望ではないでしょうか。あるいは、「原風景」というトポスへの。少なくとも、観る私にとっては、そのトポスは「どこ」なのかに思いを巡らせてしまう。この表現にそのトポスを見出せるのか。個人的には、そのようなトポスはあるけどない。ないけどあるといった極めて繊細な「不在」というトポスなのではないか、と考えるに至りました。むしろその「不在」(しかしこれは単なる錯覚ではなくリアルな不在ともいうべきトポスです)が執拗なまでの「めくる」行為に現れているのではないか。あるいは、「めくる」という行為そのものが、そのトポスなのかもしれませんし、さらにはめくられる「平面」の物質性が立ち現れるその瞬間がヒントなのかもしれない。考えるときりがありませんでした。

二つ目。それは後半に展示されている壁画のような作品。「不在の記号」と題された作品の壁画バージョンのような感じで、ある意味これも「不在の記号」なのだろうな、と思ってみていました。画面中央には、口溶けのいいバニラアイスのような、ぽってりとした優しいアイボリーの抽象物が描かれていて、周囲はまた深緑色でした。その抽象物はなんとも表現しようがないのですが、私はそれが無垢の赤子のような、いや、赤子以前のアモルフなやや分化しかかりはじめたもののように感じられました。そう思ったら、色は確かにアイボリーですが、何か肉の塊のように観えてきてしまい、しかもそれがうごめいているような印象を受けました。その前にひたすら「めくる」作品を観てきたので、私はそのアイボリーをめくってしまいたくなる衝動を覚えるほどに。潜在的なエネルギーのようなものを、そのアイボリーは宿しているようでした。

キャンバス地を何枚も重ねて、それをめくったり縫い合わせたりという手法は、どこかエロティックな欲望を感じさせると同時に、日本の伝統的なレイヤーによる遠近法を感じることのできるものでした。西洋的な透視図法による遠近法とは違って、日本の水墨画や浮世絵などは、レイヤーを重ねることで遠近を表現するスタイルを文化として持っています。それを野田さんは、「平面」のもつ「物質性」を加味して現代的に解釈したとも観ることができるように思います。

また「めくる」「縫い合わせる」という手法には、境界をめぐる緊張感のようなものがありました。「めくり」「縫い合わされた」ところにさらにペインティングや削りが加えられるのですが、それによって境界を越境して絵の具は染み込んでいく。これが媒介となって同化が生じかけているのですが、そこに「物質性」が生み出す異化効果も効いてくる。同化と異化が境界をめぐって拮抗していました。

全体を通して、「抽象のエロティシズム」とでも言えばいいのでしょうか、そんな感想をもった展覧会でした。そのエロティシズムが感じられたのも、「平面の物質性」という「絵画の原風景」の飽くなき追求が野田さんにあったからだと思います。