ラヴェッソン『習慣論』 野田又夫訳 岩波文庫 1938年

気づけば自分が「おかしく」なってしまったと思うときがある。気づけば便器に吐しゃ物をぶちまけている光景に、我に返るときがある。自分が普通ではなくなってしまった、と思ってしまうときがある。あるいは、他人と自分との間に狂いが生じたように見えるときがある。そんな自分を、すぐには呑みこめず、すでにそこから抜け出すことなど、絶望的に思えるときがある。今日こそは吐かない、と決心する。しかし夜にはまた身体が勝手に動き出す。気づけばまた、便器の前で嗚咽している…。

脱線してしまった自分への呵責、叱責、怒り、嘆き、憎しみ。その情念を他人に投影してしまう自分。世間を皮肉り、嘲笑し、誰も自分を救ってくれない、誰も自分の気持ちなどわかってくれない。そう、思ってしまうことがある。そんなシニカルな自分を嫌う。そんな自分を批判し否定しなければならない、と思うことがある。あるいは。

自分以上に苦しい人などいくらでもいる。だから自分はもっと頑張らなければいけないのだ、と時おり自分以上に不幸な人を想起し、自分を奮い立たせるために、一人孤独のなかで利用することがある。そんな自分の倒錯を、可能な限り粉砕したいと思うときがある。しかし。

その自己批判、自己叱責は、何かを変えたのだろうか。自分を救うことが、真の意味でできただろうか。そう思ったとき、ここからどう進むか。

ラヴェッソンの『習慣論』をこのような倫理的問いの文脈から眺めてみること、これが、今回のこの書物との経験を紡いでいる。

どんなに自己批判しても、相変わらず身体は過食嘔吐を欲している。そこから抜け出せない。身体と精神の解離。この身体に対して、どのような態度をとるか。コギトはここから始まる。

「習慣は、第二の自然である。」

端的に、これがラヴェッソンのテーゼである。生物は、人間は、習慣から習慣へと移行していく存在である。習慣は潜在的に次の習慣を創造する力を内包している。それゆえ、習慣とは単なる状態ではなく、素質と能力である、といわれる。

抗する理性をなぎ倒し、狂い続ける(あるいは狂ったように見える)身体の営み。それは、第二の自然である。それは「自然の恩寵である」。創造の産物である。それは、潜在力の発露である。したがって、それ自体は善である…。

癌を告知された、近しい人がいる。癌患者らしい振る舞いを、医療は促す。患者自ら、癌という枠に窮屈そうに歩みいる。鮭を止め、好きな煙草も止め、呑みたくもない薬をのむ。うつ病ですね、と精神科医に言われる。摂食障害ですね、とカウンセリングで言われる。休んだほうがいい、頑張らないほうがいい、薬を飲んで安静に。それでも治らない。では、なにか夢中になれるものを見つけるといいですね、とあれこれ持ってきては試してみる。それでも一向に回復の兆しは見えない。

「努力は、いわば、能動と受動[…]とが、互いにつり合う均衡の場所である。/努力は、この神秘な中間である。」

「愛の無反省の自由が行動の全実体を作る。しかして愛はもはやそれの愛するものの観想と分かたれず、また観想はその対象と分かたれない。[…]これが自然の状態である。[…]自然は先行する恩寵である。それは我等の内なる神である。しかもあまりに内に在り、我等の降り行くことなき我等自信の奥底に在るがゆえに、唯その故に、隠されたる神なのである。」

「治る」という言葉をあえて使い続けるなら、それはラヴェッソン的な「努力」、ラヴェッソン的な意味での「愛」なのかもしれない。一生懸命に癌患者になること。一生懸命に鬱病患者になること、一生懸命に摂食障害者になること。つまり。立派で自由な癌患者、立派で自由な鬱病患者、立派で自由な摂食障害者になること、自らを配慮して。世間と比較して得られる「病気」ではなく、一つの「自然」として、自らに内在する「恩寵」として、それを「神」として「愛」すること。―けっしてシニカルになるのではなく―。