近代と宗教(1)

人間は言語を習得することによって初めて理性を目覚めさせ、世界を開く(言語論的転回)。言語教育、つまり他者による教育=伝達を受けることによって、初めて生きうる存在となるのが人間である。この意味で、人間の生は、その人物が生まれる前からすでに始まっている。人間は常に、自分より前に生きた人間の「続き」を生きてゆかなければならないのである。

人間は生まれ、育ち、老い、死を迎える。一切は無に帰してしまうかのように見える。が、しかしそうではない。死んだ人間が生前に作り上げた財産や知識、伝達してきた物事は、残された生者たちのなかでなおも行き続けるからである。この意味で、人間の生は、その死後も存続するといわなければならない。

他者とのつながり。この言葉が意味するのは、すなわち人生は生まれる前から始まっており、死してなお継続するということである。「つながり」を示し、継承・存続させていくこと。これを人間はさまざまな仕方で行ってきたし行っている。物語というナラティブや、葬儀や墓といった儀式やイコンによって。

ではそれらナラティブやイコン、儀礼によって何が継承されていくのか。もちろんそれは肉体ではない。あくまでもヴァーチャルな人格がそれである。

宗教とはなにか。それはこの「ヴァーチャルな人格」を中心として社会を組織すること、そしてそれによって、生死を超えた人間同士の「つながり」を確保することである。人間は、神話や儀礼、イコンを多種多様に創出し、「ヴァーチャルな人格」および「つながり」をつくり上げてきたのである(テクネーとして)。

中世ヨーロッパではこの意味での宗教が営まれていた。教会においては、教会簿をもとにして地域住民の誕生・結婚・死亡について管理され、教会法にもとづく裁判が行われた。修道院では、家族や地域を離れた人々が参集し、「祈りと労働」の生活を送った。その信仰のあり方は、近代プロテスタンティズムにおける聖書主義や敬遠主義のように個人的・私秘的なものではなく、強く社会的機能を帯びたものだった。

このような宗教のあり方は、世俗的権力者と相互に補助しあう関係にあった。封建諸侯にとって、十分の一税を始めとする数々の徴税権を有していた教会や、、労働と禁欲に基づく富の生産・集積を可能とする修道院は、経済的な観点からも多くの利点があったため、諸侯は自ら多くの財産を、教会や修道院に寄進した。それによって聖職者の地位の多くを封建諸侯の縁者が占めるなど、両権力は互いに癒着していたのである。

しかし十二世紀ごろから、聖職者の叙任を決定する権利を、教権と俗権のどちらが有するべきかという「叙任権闘争」が発生し、両者間に対立が芽生える。十三世紀から十四世紀にかけて、教会の法律家たちは、教皇権は神からの直接付与であるとし、教皇権を高めた。

しかしこれに対する反発も高まることになる。サン・ピエトロ寺院の建築費を、贖宥状の販売によって徴収しようとした教皇レオ十世に対して、マルティン・ルターが激しく批判し宗教改革が開始された。これが十七世紀前半の三十年戦争にまで連綿と続く、政治と宗教双方の色彩を帯びた争いであった。

このような状況を鑑み、世俗君主たちはどう考えたか。ずばり、もはや社会統治の礎をキリスト教に委ねることはできないということである。そこで、王権神授説が最初に考案された。そこでは、統治権の正当性は教会の媒介を不要に付される。この王権神授説をさらに近代的に仕立て上げたものが、社会契約論である。単純化して先に言っておけば、王権神授説が国王の主権性を主張するものであり、いわば「上からの主権論」であったのに対して、社会契約論においては主権をもつのは国家そのものであり、国家設立の主体としてブルジョワジー(新興商工業者=都市市民)であるという「下からの主権論」である。

社会契約論の論陣を張ったのはロックやホッブズ、ルソーである。ここでは後の二人を見ていこう。

ホッブズは、人間は生来の自然な権利=自然権を有しているが、それが野放しにされると「万人の万人に対する闘争」状態に陥ってしまうため、各人は各々の持つ力を一個の人格=リヴァイアサン(地上の神)に譲渡し、そのものに万人の平和を委ねなかればならないと言う。ホッブズは天上にある永遠不滅の神と、地上の神としてのリヴァイアサンを厳密に区別し、政治的領域からキリスト教会の影響力を完全に排除しようとした。

ルソーの理論の大枠はホッブズのそれと変わりない。ルソーの特色は、政治体(corps politique)を成立させ、それを指揮・運営するのは、全構成員が不可分となった状態で発せられる「一般意思」であり、この石を成立させるのに妨害となるような部分的社会(ex.教会、修道院、ギルドetc)は、国家のなかではその存在を許されない。また、ホッブズやロックが認めていたような国家への「抵抗権」は否定され、国家を存続させるためであれば、その成員は国家に命をささげなければならないとされる。また、市民が政治体の至高性=主権性を愛するようにするために、「市民宗教」を普及させる必要があると説く。

ホッブズもルソーも、「リヴァイアサン」や「政治体」といった概念を用い、社会契約によって形成される国家に対して地上世界における揺るぎない主権性を付与し、同時にキリスト教にまつわる組織や権威が国家に介入することを厳密に排除しようとする。ここまでの議論を鑑みれば、近代国家は、教皇の頭から主権という冠を取り上げ、それを自らの頭に冠したということになる。