剥き出しの暴力、剥き出しの生(死)。生死の無媒介性、一体性。一対ではなく。

政治的決定はなされなければならない。そのためには、政治的決定権を行使する空間は、ある種の超越的、特権的なものでなければならない。そこには、その特権性ゆえの危険性があるからこそ、民衆は思考を投下し、信約convenance=契約を結ぶ。リヴァイアサンを語り、社会契約論を論じたホッブス=ルソー的なもの。それがヨーロッパ民主制の思想の底流をなしているのだろうか。

本当なのだろうか。ドイツからの留学生の話からはそのようなニュアンスが伝わってきた。しかし少なくとも日本の現状をみると、そのような信約としての契約が代議制民主主義政治で成立しているようには思えない。むしろ、そのような契約が破綻した今日、その特権的決定権を持つ権力は、その剥き出しの暴力性をふるっているのではないか。

この剥き出しの暴力に相対するのが、剥き出しの生、生死が確率論的なものとなり、生殺与奪が権力に委ねられ、弔う・悼む・喪に服すことすらままならなくなりつつある現状。守ってくれるリヴァイアサンは、殺害する暴君の顔を見せる。生殺与奪を握った権力。しかもその権力は、アセファルのごとき無頭人だとしたら。独裁者なき政治の暴力。

誰も独裁者ではない。しかし、独裁的暴力が振るわれる。確率論的、と言った。どういうことか。かつては生死の間に時間があり、その時間的な隔たりの中で人は自らの生の紆余曲折を経験し、試行錯誤を繰り返し、死へと準備を整えることができた。しかし、今なんの明確な根拠を与えられることなく、死を与えられてしまうとしたら。いや、さまざまな試行を経た準備をされたものを死というのだとしたら、それは死でないのかもしれない。かろうじて、宗教が葬儀と言う形を与えるおかげで死は死となりえるのかもしれないが。

既製品としての高度資本主義社会の只中で、「完成」されて生まれてくる物どもは「崩壊」へと一方向的に進む。それらと同じように、人の生もが死へと一方向的に進むものでしかないという考え方が底流していないか?しかしその一方向的時間ですら、誰でもない暴君によって無根拠に確率的に寸断されてしまうとしたら。その唐突な終わりは、「終わり」として意味を獲得することが極めて困難である。なぜなら無根拠だから、確率的だから。虚しい葬儀と嗚咽交じりの涙を繰り返し、何とか人は意味を与えようとする。しかしそこまで追い詰められなければならぬ現状に、空を仰ぐ。

金、という問題でもある。孤独死、教育費、障害者、病人、などなど。彼ら打ち捨てられた剥き出しの生/死。それらを特権的な力で生産するリヴァイアサン?それはリヴァイアサンに忠誠を誓う臣下を生産することのネガである。