鉄とコンクリート。欲望とその去勢―そして回帰。

バイパスから少し入った路地裏。すぐわきには中学校がある。その中学校に対して反対側に、煎餅工場がある。

のっぺりとした外壁に囲まれ、異様な威圧感のある、アナクロニックな工場。民家のわきにこんなものがある事自体、奇妙だった。その工場が、一部建物を改装するため、コンクリート造のそれを崩していた。崩壊と再生の奇妙な同居。ユベール・ロベールの廃墟画を思わせるような、天井には青空、入口は大きく崩され、がらんどうの内部。しかし内部も瓦礫が少しある程度でからっぽだ。内壁には格子状の鉄筋なのか木なのかが、抽象絵画のような構成で壁面上を覆っていた。崩された入り口わきには途中でもがれた鉄筋が飛び出していた。鉄。

鉄という物質性に孕まれている運動性。鉄それ自体の欲望がその運動性だとしたら、この途中でもがれた鉄筋は、その欲望が去勢された、「飼いならされた鉄」という、欲望の殺害現場だったようにも思われた。しかし同時に、崩壊状態のコンクリート造と対象を成すその消えることのない運動性、いやちがう。鉄はコンクリートの抑圧を受け普段は去勢されて内部に取り込まれているが、このときばかりと今、まさに今、その運動を始めたのではないか。その運動の伸び行く先は虚空。目的を喪失してもなお、その運動性を、欲望をもつ鉄。それは二十世紀初頭に人類が戸惑い、その他者性をなんとか去勢しようとした結果去勢の運命をたどることになってしまった鉄という他者の回帰ではないか。生まれ損ねるのがインファンスだが、しかし何度もそれを反復する根源的欲望としてのインファンス。だとしたら、それは逆につねに殺され損ねる、あるいは殺し損ねるということでもある。このことは、鉄にも言えやしないだろうか。私は今日、そんな反復の時空、反復がなされているというまさにそのこと自体=出来事に、出会ったのかもしれない。

鈴木了二『非建築的考察』をあらかた読み終わった、その次の日の出来事だった。暑い日が続いている。