翻訳と解釈(注釈)―Fragmente von Novalis

様々な覚書・注釈1797-1798

〔「花粉:Blütenstaub という根本表現」

友よ、土地は貧しい、我々は多くの種を蒔かなければならない、
せめて慎ましい実りだけでも育むために。

エピグラフ注釈;「土地der Boden」とは何か。①ドイツ文化(ナショナリズム的解釈)、②人間精神のあり方(より一般的な解釈)、という二つの解釈の仕方がある。

① 私たちの文化はいまだ貧弱で遅れている。それゆえ我々はたくさんの種子=フラグメントを蒔いて育てなければならない。せめてそれがわずかばかりでも前進をもたらしてくれるように。
→当時勃興し始めたナショナリズムヘーゲルらを想起すべき)を念頭に置くと、フランス革命に一時は熱狂しつつも、アンチの姿勢をとったNovalisは、やはり仏に対する独の後進性が躓きの石(コンプレックス)だったのかもしれない。
② 人間精神のあり方はいまだ潜在性を含んでいる。その多様な潜在力を発揮させるためには、さまざまな装置=フラグメント(問いの誘発)を配置しなければならない。それが後世にどれほど残るだろうか、いや残りすらしないかもしれないという絶望のうえで、それでもなお書かなければならないし書くしかない(müssenの外的強制と内的必然)。
→だから、我々は想像しなければならない。共感ではなく共鳴しなくてはならない。なぜ、書かれたのか。なぜ書いたのか。その行為、その欲望が、その絶望のさなかでなぜ生まれえたのかに驚きつつ。彼らの問いかけへの応答としての書かれたものに対して、私たちの問いかけが彼らの問いと非感性的類似を作品の上で成就することを願って。しかしそれすらも絶望的な試みなのだ。それでもしかし、我々はその義務がある。しなければならないし、するしかないのだ、我々も。)

1. 我々は至るところ絶対的な(無条件的な:unbedingte)もの、主体としての自我を求め、しかしいつも客体としての物(Dinge)しか見つけない。

(1の注釈。シュレーゲルは次のように言っている。
①「哲学の原理としての「自我」あるいは人間知性における客体化さええないもの」
②「Bedingenとは、それによってなにか(etwas)が物・客体(Ding)になる、なにかが物体化される(bedingt)、そのような事象を意味しており、物体化する当の作用のことである。このことからわかるのは、それ自体でDingと措定され得るようなものはないということ、つまり客体化されない物というのは矛盾である、ということである。物体化されえない(非客体化:Unbedingt)とはすなわち、なにも物として措定されえず、なにも物にされることができない、ということである。客体化されないものとは、事物一般でもなく、物体化されうるものでもなく、主体において、すなわちけして物体化さえれないもの、つまり絶対的自我のみにある。」)

2. 音と線による命名は、驚くべき抽象化である。4つの文字はGottを私に指し示し―統一された線は無数の物を指し示す。この意味において、宇宙の操作は何と気軽なことか!なんと具体的なのだろう、同心である霊界は!文法は霊界の力学である!一つの命令が軍隊を動かす―自由という言葉は国を動かす(仏革命)。
(2.の註訳。ここでは後半のフランス革命を意識したセンテンスに主題的重みが与えられている。「自由」という言葉を熱狂的に(後出の病理学を踏まえれば「狂信的に」)叫んでなされたフランス革命を、「命名Bezeichnung」の論理から説明している。その過程で興味深いのは、言葉の力は「言霊」のような「神秘的な力」ではなく、あくまで「文法Sprachlehre」の「力学Dynamik」であると考えられている点である。これがNovalis特有の「霊界der Geistwelt」をも(同心円構造として重なり合っているがゆえに)揺り動かす力学となりうる。
 また、音と線、聴覚と視覚、パロールとランガージュ(ロゴス)の対比も興味深い。しかもNovalisは音を文字と同一視しているような語り口をみせている。声の中に書き込まれた文字による分節は、アガンベンによって興味深い論考がなされていることを想起させる。世界を動かす力学は「命名」を前提としているという理路は、ベンヤミンにおける「名の論理」をもその視界の彼方に見せてくれるようにも思う。)

3. 世界国家(Der Weltstaat)とは、美的な世界や社交的な世界(サロン)が与える魂によって生かされる身体(Körper)である。(しかしその逆もまた然り。つまり)世界国家は美的世界や社交的世界に必要不可欠な器官(Organ)なのだ。(生気論的身体観に基づいたWelt論)

4. 修業時代(ゲーテ「ヴィルヘルム・マイスター」を下敷きにしている)は詩を志す若者にとっての時間である―大学の(akademische)年月は哲学を志す若者のためである。
 大学は完全に哲学の機関であるべきではないだろうか(sollte接続法Ⅱによる反実仮想表現)―それはただ一つの学部であるべきだ―それは、思考力を刺激し合目的に鍛えるためのひとまとまりの設備として組織される。
 もっとも卓越した意味における修業時代とは、生きる技術(der Kunst zu leben)を学ぶための期間である。計画的に並べられた試練(Versuche)を通して、人は生きる技術の基本原則を学び知り、その基本原則を思うがままに使う能力を手に入れる。

5. 精神はある種の永遠的な自己証明(Selbstbeweis)をする。(Beweis führen:証明する)

(→自己触発論。Dingは他者の介入による客体化(カント的に言えば悟性のカテゴリー)を通してはじめて、etwas(カント的に言えばDing an sich)からDingとなる。それゆえDingはつねにすでにDing an sichにとっての他者性(それを認識する人間主体)の横断が書き込まれているのに対し、Deist(シュレーゲル的には絶対的自我absoluten Ich)はそのような客体化する他者性なしに、自己触発的にそれ自体で自足する存在である。)

6. 我々が我々自身を余すところなく完全に理解する(begreifen)ことは決してない、がしかし、我々は理解するより以上のことをするだろうしできるだろう。

(→“begreifen”/“begreifen以上のこと”の対比は、フラグメント4.における、Lehrjahre/akademische Jahre、philisophisch/poetisch、Denkkraft/der Kunst zu leben、という対比と相似をなす。)

7. ある種の抑制はフルート奏者の指使いに似ている。彼は様々な音色を奏でるために、この穴あるいはあの穴と穴を塞ぎ、意図的に無音の(塞いだ)穴とよく響く(塞いでいない)穴を連ねているように思われる。

8. 幻想と真実の差異は、それらの生命機能の差異の中にある。
 幻想は真実によって生きながらえる―真実は自らのうちで自足している。人は病を退治するように幻想を破壊する。つまり幻想とは論理の炎症あるいは麻痺以外の何物でもない―すなわち狂心あるいは俗物性である。狂心(jene:dieseと対照的に用いられる。jeneはより遠い方、dieseはより近い方の名詞を受ける。ここでは先に出た「狂心」を受ける)はふつう痕跡―思考力の外見上の欠如を残す。この痕跡(欠如)は、一連の刺激(Inzitamenten)(強制薬Zwangsmitteln)を減らしていく以外には除去されうるものではない。一方俗物性(diese)は、見せかけの熱狂(躁状態)へとしばしば移行し、その熱狂は危険で革命的な徴候・病(symptome)であるが、これは一連の暴力的方法を増大させることによってのみ、治癒されうる。
 どちらの体質(Disposition)も持続的な(chronische)規則正しい(streng befolgte)治療によってのみ変えられることができる。

9. われわれのすべての知覚能力は、ほぼ視覚に等しい。対象物は瞳の上にただしく現れるために、正反対の媒質を経由しなければならない。

10. 経験は理性的なものの試薬であり、その逆もまた然りである。
 応用の場における単なる理論の不十分さ―実践がしばしばそれについて語るところのそれ―、それはまた剥き出しの経験の理性的応用でも同様であることが分かる(findet)。こうしたことは、しかしながら、剥き出しなものの不十分さという不可避的な結果を甘んじて受け入れることで、真の哲学者によっても十分に指摘されてもいる。それゆえ実践家は、次のような問いへの返答はいかに問題含みであるかもしれないことを予感することなしに、むき出しの理論を完全に否定する。その問いとはすなわち、「応用のための理論か、理論のための応用なのか、どちらであろうか?」というものである。

(一般的な解釈として図式的にいえるのは、演繹と帰納いずれの仕方でも現実との齟齬が避けられないということ、そしてNovalisが実践家der Praktikerの姿勢に対して批判的であるということである。)


11. 死はある種の自制である―あらゆる自己克服は一つの新しい軽やかな(leichtere)実存をもたらす。

(→leichtere…leichtの比較級)

12. 日常的なものやありきたりなものに対して、これだけ多くの力や努力を我々が必要とするのは、ひょっとして本来の人間にとって瑣末な日常性がもっとも非日常的で並々ならぬものだからだろうか。
 最高のものとは、もっとも理解しやすく、もっとも身近なもので、もっとも不可欠なものである。この文脈において、このことに対する無理解は、我々自身に関する無知、我々自身からの阻害のみによってのみ生ずるのであり、この無理解自体、私は理解できない。

13. 奇跡Wunderは自然法則的作用との交互性のなかにある―それらは互いに相互作用し、共同して全体を構成する。それらは自ら相互に止揚しあうことによって統合される。自然的出来事なしの脅威はありえないし、その逆もまた然りである。

(創造的進化)

14. 自然は永遠に所有することの敵である。自然はその強固な法則にしたがって、土地所有のあらゆる徴を破壊し、その構成のすべてのメルクマールを根絶する。大地はすべての種のものである―どの種もひとしくすべてを要求する権利をもっている。昔の人々は長男相続制の運命(偶然Zufalle)にいかなる優先権も負ってはならない。所有権はある特定の時期に消滅する。耕地改良と破壊は変更不可能な前提条件に基づいている。しかしもし身体がひとつの所有物であるとするなら、それによって私はこの地球の活発な住人たる権利を得るのみである。かくして私はこの所有物(身体)を失うことによって私自身を失うことはできない―それは私が諸侯の寄宿学校での学籍を失うことでしかない。そして私は、より高次の組織Korporationへと歩み入る。そこは私の愛しの学友が私のあとに続いてくるであろう場所である。

(wodurch = durch was wasは先行文全体を受ける)

15. 生は死の始まりである。生は死のためにある。死は終わらせることであると同時に始めることである―離別であると同時に、よりいっそうの自己への近接である。死によって還元Reduktionが完了する。

(Novalisはカトリック教徒。近くが遠く、遠くが近い。もっともありきたりなものが最も崇高な最高のもの、最高のものがもっとも卑しいもの、といったイロニー的構造はキルケゴールを髣髴とさせるキリスト教的な論理でもある。)

16. 我々は、夢を見ているという夢を見ているとき、目覚めに近い。

17. 想像力は来たるべき世界を高みへと、あるいは全き低きへと、はたまた輪廻という形で我々に導き示す。我々は万有を経巡る旅の夢を見る―ならば、万有は我々の内面にはないのだろうか?我々は我々の魂の奥底を知らない―(すなわち)神秘の道は内面へと続いている。過去や未来といった永遠のもつ世界の永遠性は、我々の内にあるかさもなくばどこにも存在しない。外界とは影の世界である―外界は光満つるその領域に自らの影を投影する。今、我々には当然のごとく内面は暗く、孤独で、無形なもののように思われるが、しかし、もしこの影をかいくぐって、影の実体を取り除くのならば、そういった内面の印象はまったく別のもののように思われるだろう―こうして我々は、これまで以上にその輝かしさを享受するのだ、なぜなら我々の精神はそのような光の欠乏に耐えてきたのだから。


18. ダーウィンは次のような所見を述べている。すなわち、我々が可視的事物の夢を見ていたあとでは、目覚めの際に光によって眼をくらませられることが少なくなる、と。この地上ですでに見ることの夢を見たものは幸いである、彼らはより早く天国の栄光が放つ光の強度に耐えることができるであろうから

19. もし人が何らかのものに対する感受性の種を自らの内に宿していないのなら、どのようにして人間は感受性を持つことができるのだろうか。私が理解すべきことは、私の内でその為を有機的に発展させなければならないということであり、私が学んでいると思っていることは、養分すなわちその有機性への刺激にすぎないのである。


20. 魂は内的世界と外的世界が接する場所にある。その接触の場所で浸透しあっている面のどの点においても、魂は存在している。

21. 真の規範的人間の生命は一貫して象徴的であらねばならない。この仮定に基づけば、あらゆる死が贖罪の死になるとは限らないのではないだろうか?―おそらくこのように言ってよいとおもられるのだ。そして、このことからより一段と注目すべき結論が導かれやしないだろうか?


22. 追い求める者は惑いに陥る。秀でる者はしかし、大胆不敵に、確信に満ちた調子で次のように語る。彼(天才)の中で起きているのは、彼が自分のなす表現に囚われているのでもなく、それゆえ彼の表現が彼に囚われているのでもなく、彼の観察=省察と観察されている当のものが自由に合致し、結果として一つの作品へと統合しているように思われる、と。
 我々が外界について語り、現実の事物を描写する際には、我々は天才と同じように振る舞っているのだ。天才もまた、想像された事物を現実のそれと同じように題材として取り上げ、それを取り扱う能力を行使している。綿密な観察行為、合理的観察を描写へ転じること、こうした能力は天才のそれとは異なったものである。この能力なしには人間は半分しか見れない―そしてそれは1/2の天才でしかないということだ。つまり、人間は非凡な構図を持つことができるのだが、それはこの能力の欠如のために決して発展するには至らないのだ。
 天才性なしには我々はほぼ間違いなく存在しえない。天才性はまったくもって必要なのである。我々が普通天才と読んでいる者は、天才中の天才のことなのである。


23. もっとも恣意的な先入観とは、自己の外部に出る能力(自己を客体化する能力)、五感を超え出ても意識を保持して存在する能力が与えられていない、という思い込みである。人間は、あらゆる瞬間において超感性的な本性であることができる。もしこの能力がないとしたらその人は世界市民ではないだろう、つまり動物であろう。もちろん、超感性的状態において思慮深くあること、つまり自己自身を発見するということはとても困難である。というのも、人は絶え間なく必然性のもとで残りの状態(日常性)の変遷に繋ぎ止められているからである。しかし我々は、この状態に意識的であろうとすればするほど、感性界(日常性)から生まれるという確信はより生き生きと、より力強く、より満足いくものになる。その確信とは、精神が真に掲示することについての信である。こういったことは、見ることでも、聞くことでも、感じることでもない。それはこれら三つすべてから構成されるものであり、あるいは三者連合以上のものである。それはある種の無媒介な確実性の感情なのであり、その人にとっての真の固有な生の直観(Ansicht)なのだ。その場合、考えることは法に変わり、願うことは実現することへと変わる。この瞬間が事実あるということは、弱き人々にとってある種の信条である。
 その現象は、とりわけいくつかの人間的な形態や顔を見るとき顕著となる。そのようなときとは、より詳しく言えば、いくつかの眼や表情、身振りに注目するときであり、ある種の言葉を聞くとき、ある種の文章を読むとき、人生や世界や運命について思いを巡らせるときである。加えて、大部分の偶然的な出来事、いくつかの自然的事象、特別な季節や日々のある時刻は我々にそのような経験をもたらす。ある種の気分もまたとりわけそのような啓示に関して好都合である。ほとんどの啓示は一瞬であり、ほんの少ししか続かないのはさらに少なく、留まっているものは最も少ない。この場合、個人差が大きい。或る人は他の人より啓示を摑むし、或る人はより感じるし、別の人は同じことをより理解する。後者はいつもおぼろげな光の中に留まっているだろうし、前者はきらめゆく啓示、ただし後者のようなそれではなくより明るく変化に富んだ光を感じているのだ。この能力は病気のようなものである。それは感性の過剰と悟性の欠如、あるいは悟性の過剰と感性の欠如という病気を示している。


24. これ以上先に進むことができないとき、人ははったりや高慢な振る舞い、即座の決断によって自力でなんとかするものである。

25. 恥ずかしさとはおそらく神聖冒涜の感情である。友情、愛、宗教的敬虔さとは秘めやかに扱われるべきではないだろうか。人はめったにない親密な時間においてのみそのことについて話すべきであって、それ以外のときはそのことについては黙してわかり合うべきではないだろうか。多くのことどもは儚すぎて考えられることすらできない。もっと多くの者は口すらできないのだ。

26. 自己放棄とはすべての辱めの源であり、翻って真の効用の根拠でもある。はじめの一歩は内面へ向けての注視―自己自身を分離(抽象)しつつ熟視(内省)すること―であるが、ここで立ち止まるのはまだ半分にしかなっていない。次なる一歩は外界へと実践的(活動的)な注視でなければならない。すなわち、自発(自律)的な冷静沈着な外界の観察でなければならないのだ。
 人間はなにか優れたことを成し遂げる俳優のような存在にはなろうとしない。そのような人間とは、自らの経験や自分が好きな事物以上のことを表現できないのだ。彼らは全く未知のものやまったく興味のないものに関して、熱心に研究し時間をかけてそれを表現しようとする勇気がないのである。表現者はすべてを表現できなければならないし、そうしようと意志しなければならない。人が正しくもゲーテにおけるそれを賛美している、かの偉大なる形式とは、このような志を通して生まれるのである。

27. ゲーテの一風変わった独自性とは、取るに足らない些細な事件を、より重大な事件へと結びつける点に認められる。彼は想像力をして詩的なやり方で人を魅了するような神秘的な戯れを生み出すこと以外に関心は無いように思われる。ここにおいても、異邦人たるこの男は自然(本性)の手がかりをつかみ、自然の優美な技巧を盗んでいたのだ。日常生活は類似した偶然に満ち溢れている。そのような偶然はある種の戯れを形成しており、すべての戯れと同じように、驚きや欺きを目的をしているのだ。
 日常生活のいくつかの伝説とは、転倒された脈絡に注目することに由来している。例えば、悪夢は幸運を意味し―死んだ噂は長寿を―、道端を横切る野兎は不運を意味する。日常生活の迷信のほとんどは、この戯れの解釈に基づいている。

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