ミシェル・テヴォー『不実なる鏡』抜粋

「視的欲動の対象aとは、およそ「他者」のあの計り知れず、不安を惹き起こす、ときに耐えがたい眼差しのことであり、この眼差しは、私の視野に穿たれた黒い穴、去勢によって開けられた裂け目にも比較されうるだろう。それは禁止され失われた享楽の探究を、再び目覚めさせると同時にはねつける対象である。それは原初的欠如を象徴、もしくは受肉する対象である。」(p.8.)

「要するにそれ[ブルネレスキの装置(引用者註)]は、実測的な表象によって可視界を徹底的に汲み尽くすという極限の試みであり、ラカンが眼差しと呼ぶものを捨象、あるいは暗点化する(scotomiser)という極限の試みなのである。だが、それにもかかわらず、構図のまさに中心には、つまりその標準点には、覗き穴、あるいは異様な穴、視覚の盲点(punctum caecum)が残っており、抗いがたく観賞者を巻き込んでいる。[…]この仕掛けの核心にある瞳孔のようなこの黒い穴は、視覚において抑圧されたものの回帰にほかならない。いいかえるなら、視覚において避けがたい眼差しという審級であり、さらにいいかえるならば、対象aなのである。」(p.12.)

「画家としてであれ観賞者としてであれ、カンヴァスと光のあいだに入るのは私なのである。すると今度は私自身がスクリーンとなる。私はある種の不透明性として介入し、私を包み込む人称を横断する眼差しの輝きを際立たせることになる。まさにそれによって私は、この光の氾濫を掻き立てるのだ。一方この氾濫は、その背景を塗りつぶすことで、私の構成的欠如を指し示す。」(p.14.)

「この二重性(表象の主体、つまり視光線が収斂する瞳であると同時に、外部の眼差しという光によって、ネガとして文字どおり撮影される客体であるという二重性)、この眼と眼差しの分裂、これこそまさしく私たちを「分裂した主体」として規定するものである。」(p.14.)

「芸術家は、いわば未来完了で創作する。つまり芸術家に与えられた役割とは、その出現の際にはおぞましいと受け取られていただろうものの美を最終的に認めさせることである。[…]その論理的時間とは、まずは性急さとして自らを前方に投影し、確実性、自明性を先取りし、その確実性、自明性のよってきたる理由を前日付にするか、さもなくば事後的にその理由を生み出す、そういう時間のことである。」(pp.18-19.)


「タブローのうちにはつねにその不在を指摘できるような何かがあります。これが知覚の場合と異なる点です。タブローに不在なのは中心野、つまり視覚のなかで眼の判別的な能力が最大限にはたらく領野なのです。」(p.19.)

「どんなタブローにおいても、それは不在であり、穴に取って代わられるほかはありません。そして穴とは、要するに同行の反映のことであり、その後ろに眼差しが控えているのです。」(p.19.)

「眼差しが照準点に見出すのは、可視界の割れ目(fente)、つまり見る欲望によって開かれ、またその欲望へと、つまりは欠如へと向けて開かれた自らの瞼という割れ目にほかならない。」(p.20.)

「この[ラス・メニーナス(引用者註)]タブローの内部では、絵画と鏡とが、ある一定の対比のもとで向い合って置かれている。つまり鏡はここで表象の秩序に属しているが、タブローは「表象を代行するもの」として自らを創設=定着している。ところが反対に、鏡がその名を冠する段階〔鏡像段階〕に介入するときには、今度は鏡が、絵画が担っていた機能、つまり「他者」の眼差しを隠喩化するという機能を果たすのである。鏡についてのこのように未決定で交替的な捉え方(それは、主体と鏡像の反転にまさに対応している)は徴候的である。」(p.21.)