永井均『〈魂〉に対する態度』―「ヴィトゲンシュタインの〈感覚〉とクリプキの〈事実〉」要約および考察(1)

 クリプキウィトゲンシュタイン解釈。それは『ウィトゲンシュタインパラドックス』から『名指しと必然性』で転回されている。その評価はまさに賛否両論である。なされている批判は主に大きく二つに大別できる。クリプキの議論そのものに対する批判と、クリプキウィトゲンシュタイン解釈に対する批判の二つである。永井はどちらにも組しない。永井はクリプキの議論およびウィトゲンシュタイン解釈を受け入れた上で、それを手がかりとした自説の展開を行っている。

 まずクリプキウィトゲンシュタイン解釈とはどのようなものか。知られているように、それは有名な「懐疑論パラドックス」である。クリプキウィトゲンシュタインの『哲学探究』における「規則は行動のしかたを決定できない、なぜならばどのような行動でもその規則と一致させることができるからだ」(二〇一)に示されたパラドックスを敷衍することから明らかとされる。
  
 クリプキパラフレーズで最も有名なのが「クワス」である。簡単に説明する。まずあなたが通常行う「1+2=3」の計算において、「あなたは+の使い方を知っていて、それに従っているのか?」と問う懐疑論者を登場させる。あなたは当然知っていると答えるだろう。しかし懐疑論者はさらに問う。

 「あなたがこれまで経験した加法計算はたかだか有限個であ ろう。つまり加法について必ず未知数があるはずである。そ の未知数を仮に57としよう。さて、あなたが今まで経験した 加法の 計算のすべてについてはこれを満足し「57+1=58」 を満たす「+」の使い方、これを「プラス」と呼ぶことにす る。他方、あなたが経験した加法については プラス同様に これを満足し、かつ「57+1=5」と計算する「+」の使い方を 「クワス」と呼ぶことにする。このとき、あなたは「+」を 使うにあたり、プラスに従ってきたのか、クワスに従ってき たのか、どちらであろうか?」

 これまでの経験を頼りに考えようとしても無理である。というのも、これまでの経験においてはプラスであろうとクワスであろうと、あなたの経験において違いを見出すことができないからだ。これは算術以外にも一般化される。クリプキは「クワス」のほかに「テーベア」や「グルー」を挙げている。
 「テーベア」とは他の場所ではテーブルを意味するが、エッフェル塔ではチェアを意味し、「グルー」は過去においてはグリーンを意味したが現在はブルーを意味する。「クワス」のときと同様に、私が今まで「テーブル」によって意味してきたのは実は「テーベア」であり、「グリーン」によって意味してきたのは実は「グルー」だったのかもしれない。真偽のほどを決定する経験的事実、および客観的根拠は見出されない。決定不可能だ。これがウィトゲンシュタインクリプキ懐疑論者の言い分である。

 クリプキはこの懐疑論者の主張を論駁し得ないものとして受け取り、これを「懐疑論的解決」によってのみ解決される、と論を進める。「懐疑論的解決」とは何か。それは、真理条件の意味論から主張可能性条件の意味論へという言語観の転回である。この転回は次のようなものである。すなわち、懐疑論者が求めるような意味では私の過去の意図を成り立たせているような事実・根拠は存在しないが、しかし通常の意味でそのような事実・根拠について―たとえば「私が「プラス」によって足し算を意図していたという事実」について―語ることは有意味なのである。と、考える理路である。どういうことか。
 私が(たとえ実は「クワス」に従っていたとしても)「プラス」の意図で計算を行い、それについて他人に間違いを指摘されず、かつ実生活に有効に機能している限り「プラス」を行っていた(つもりだ)と言うことは有意味だ、とすること。要するに、「共同体的一致」を「主張可能性条件」の前提とすることがそれである。
 クリプキは「私の側に規則の意味を知っているという確実性があり、これを根拠として「規則に従う」が成立する」という前提を斥ける。私は私が何の規則に従っているのか、私単独では決して決定されない、ということが帰結される。しかし私は何かしらの決定を行い計算を行う。決定の責任主体は私であるが、しかしそこに不可避的に他者が入り込む。言語ゲームである。主張(言明)可能性は他者と共にある私においてのみ成立する。
(しかしともするとこのクリプキの解決、「懐疑論的解決」は、私の決断を可能とし、同時にその決断によって変質する共同体の存在論へと向かう、という共同体説を導くための単なる通過儀礼として見なされがちである。これについてはまた改めて論じたい)。


 こうして「私的規則」は不可能である、ということが論証される。これは「私的言語」が不可能であるという論証とパラレルである。というより、クリプキによる私的言語の不可能性の論証とは、規則順守問題に関する懐疑論的解決を、感覚言語(痛みなど)へと適用したものであると言える。まずここに永井は足を挟む。
 永井は、私的言語論が規則順守問題の「懐疑論的解決」(共同体説)の系にすぎないのだろうか、と懐疑するのだ。私的言語を感覚言語の観点から検討するのが特徴である。永井はクリプキが提示する「クワス」た「テーベア」といった場合には確かに共同体の権威が絶対的となりうることを認める(それゆえエッフェル塔の椅子を頑なにテーブルだと言い続ければ、精神異常者として排除されることになるだろう)。そのうえで、内的感覚については必ずしもそうではないのではないか、と切り返すのだ。
 たとえば、私がエッフェル塔で誰かにくすぐられたとする。そのとき、私がいかにもくすぐったそうな振る舞いをしながら「痛い」と言ったとしたらどうか。共同体は、私が「痛い」という語の使用規則を誤って捉えていたとして、即座に私を訂正できるだろうか。そうではない。私は、くすぐられてくすぐったそうにしていたにもかかわらず、実は痛みを感じていたのかもしれない。「実は」私が感じているのが「痛み」なのか「くすぐったさ」なのか、決定権は私であって共同体ではない。くすったそうにしている私は、実は痛みを感じていた、ということは少なくとも有意味に想定可能ではないだろうか。私的言語論は規則順守問題に還元できない剰余を持っているのだ。

 以上が永井による一歩目である。この次に永井が導入する私秘性の区別が重要となる。永井によれば、ここまでの議論では一貫して主人公の「私」は「大人」として、つまり共同体によって「規則に従う人」と想定されていた。しかしそうではない人物がいる。例えば子どもだ。子どもは言語習得過程において、状況と反応行動という外的基準にもとづいて、しかも「大人」に教えられて、内的体験を表現する言葉を身につけてい行く。この段階で子どもが外的基準とは独立に、大人に教わることなく、自分で自分の内的体験を表現する言葉を創り出す、などということは想定不可能である。決定権は大人にあって子どもにはない。この「大人」と「子ども」の差異から、永井は私秘性を二つに分けることを提案する。
 一方は「大人」の私秘性。これを永井は「人格的私秘性」と呼ぶ。他方、非共同体的主体、つまり「子ども」の私秘性であり、これを「超越的私秘性」と呼ぶ。永井がその第一歩目でその端緒を描いた、規則順守問題に還元されない私的言語論の剰余とは、この「超越的私秘性」である。永井によれば、ウィトゲンシュタインの私的言語論(私的言語不可能性の論証)はこの二つの私秘性の区別を曖昧にすることによって成立しているという。
 敷衍するならば、永井は「私的言語」の「私的」なるものに対して二つのレベルを設けたのだ。「人格的私秘性」とは経験的、世界内的レベルにおける、理解可能な「私的」である。「実は〜だった」という条件法による「記述」(想像可能性)がなされた時点で、いやもっと端的に言えば「説明」された辞典でそれは剰余を失う。「想像不可能な他者」「理解不可能な他者」を主張しても、それは結局のところそのようなものとして理解されてしまう。我々は共同体の外に出ることはできない。
 ここで永井が行っている論法は、否定によって止揚された外部を結局は内部と捉える、外部の内形式化である。エクリチュールとして記載されない(それは永遠になされない)剰余。剰余は否定表現のみで定義される。正確に言えば、表現すらされない。(実はこのように言った時点で裏切ってしまっているのだが)。