モニカ・ワグナー「画像-文字-素材 ボルタンスキーとジガードソン、キーファーの作品における記憶の構想」抜粋

モニカ・ワグナー「画像-文字-素材 ボルタンスキーとジガードソン、キーファーの作品における記憶の構想」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007030426 #CiNii

 これは今村氏によってなされたワグナー論文の部分訳である。訳者補遺として最後で語られているように、この論文はボルタンスキー、ジガードソン、キーファーの三者を採り上げつつも、主としてキーファーへの考察が主となっている。ここでは論文前半でなされているボルタンスキーへの言及に焦点を当てて抜粋する。

「インタヴューの中で、彼[ボルタンスキー]は、例えばナチス絶滅収容所の写真を”恥知らずに”使用したロバート・モリスのように、ホロコーストについての芸術を創作するのではなく、”ホロコースト以降の芸術”を創作することに固執していると語っている。彼[ボルタンスキー]は、ホロコースト以降の芸術―アドルノはそれを精確に定義していたが―を自覚していたのである。」(p.173.)

「不在となった家、隙間を、ボルタンスキーは彼のテーマとした。この実際に全く開かれたままになった跡は、しかし何の意味もないものとなった。「ミッシングハウス」は、ただ通り抜けの機能だけを持っていた。ボルタンスキーは、両側に残った家の防火壁の様々な位置に、文字プレートを付ける[…]。この文字プレートは、ボルタンスキーの他の作品での写真および衣服と同じ機能を受け継いでいる。それらは、不在となり死亡し居なくなった人物たちを思い起こさせるため、客観性を持たない肖像について語ることを可能にするのである。」(pp.173-4)

「[…]名前を書いた文字プレートは、不在の者に、無人のままではあるが一つの場を与える。ボルタンスキーは、大変革の状況下にあって、西欧で長らく跡形もなく平らにされていた戦争の跡地を利用するが、それは、消し去られた者達の歴史を現在化させようとするためである。」(p.174.)

「空の空間に名前を貼り付けることは、その空洞を場の力によって素材にさせることである。この仕方をすれば、必ず不在の者と無にされた者は現在化する。」(p.174.)

「彼[ボルタンスキー]は、身体を”小さな歴史”として思い起こさせる。しかし同時に、彼は、身体が多くの展示ケースの中で集団的記憶を構成するものであることを示して見せているのである。」(p.174.)

ワグナーによれば、ボルタンスキーは「真正な日常の場を歴史の素材として自在に用いる」(p.174.)。このことはワグナーによるキーファー論から逆照射される。すなわち、

「キーファーは、[…]、歴史記述がすでに記憶にとどめおいうるmemoriableものとして示した、場と名前を自在に使用している。ここで疑問視されているのは、歴史的に価値があると主張された出来事や”偉人”の名ではなく、それらについて我々が抱く像である。このことが、キーファーの作品と、[…]、真正の場によって不在の身体を呪術的に呼び出そうとするボルタンスキーの作品とも異なる点である。定着された名に割り当てられた意味は、確かに無数のヴァリエーションの中にあるかもしれないが、呼び出された”イメージ”は、潜在的なものとしてのみ保たれている。この想像上のものを呼び出すために、キーファーは、文字を利用する。彼は、その文字を、素材の別の言語のための摩擦面として使用する。画像の物質性は、文字にある場を与え、そのテキストを変容する。」(p.178.)

 ワグナーの言葉を借りながら全体を以下のように要約する。

 手法は異なれど、ボルタンスキー、ジガードソン、キーファーの三者は、「集団的記憶あるいは個人的思い出から活性化されるものを、観照者の認識状況に委ねているが」、「決して無規定ではない過去の現存を画像[作品]内にinnerbildlich創り上げている」。例えばそれは「焼かれることのうちに無にされてしまい焼かれたものとして再び存在する、すべり落された過去を際立たせているのである」。それらの作品および作品内の痕跡は、「いかなる閉じられた真理も隠しておらず」、「現在の諸条件と必要性の下で創り出される真理を秘めているのである。逆に現在の諸条件は、過去に依存せずに存することが出来ないという考えを支持する」三者は、文字、画像といった表現の物質性へと着目し、そこに齟齬を導入することで「反照的空間Reflektionsraumを創り出すことを試みているのである」。
(「」内はpp.178-9.を中心に引用した。)