「不在」への回帰―「No Man's Land」への一つの視座

「作品」に対峙した際の、ある種の「わからなさ」がある。にもかかわらず、「楽しげな」あるいは「哀しげな」といったプリミティヴな印象・反応だけはある。そんな鑑賞体験は少なくない。特に、「知識」がなければ如何ともしがたい「壁」を感じる、そんな経験があるのではないだろうか。「知識」(これは客観的判断を可能にする根拠、という意味でもある)による裏づけがないため、「わからない」なりに感じる漠たる印象は、翻って「私だけかもしれない」という不安に転化する。「壁」によって、「私だけ」にされてしまう。そうさせてしまう「作品」がある。

他方、ある程度の「知識」があるがゆえに、その作品が担っている背景・提起している問いの大きさに圧倒されることもある。問いの困難さが「知識」によって理解されるがゆえに、問いはますます大きなものに思われ、解決不能なもののように感ぜられる。ここにも転化の契機がある。その問いの解決が人類にとっての救いであるかのような誇張によって、さらにはそれを「眺める」がゆえの鑑賞者に喚起される郷愁・感傷。「私にはできない」という不能の感情が裏返って、感傷的感情を喚起する。

この「語りえなさ」「到達不可能性」「解決不可能性」といった否定的契機によって対象に対して現れる反応、それがここで言及するある種のノスタルジー、不在への郷愁である。

重要なのは次のことだ。こうした、いわゆる不可能な対象と呼ばれるものが、他者と交換もできず一般化もできないような、まったくの孤独の状態に置かれた際の経験あるいは感情へと、鑑賞者を向き合わせる。この点に注目しよう。ここには「仕掛け」が潜んでいるように思われる。

否定的契機によって孤独な経験・感情が生じたとしても、それを生じさせた元の問いや対象それ自体は、他者と共有されていたのではないか?つまり、その問いを前に、誰もが孤独な、理解しがたく、語りえない、そのような経験に耐えるほかないのだ、ということが前もって保証されていたことになりはしないか?こうして結局のところ、この経験の孤独さは他の孤独と強く結びつき、複数の孤独が共感し連帯しあう。ここに、秘めやかな、しかし強固な排他的共同体が生じはしないだろうか。

もし仮に、ボルタンスキーが手がけるような作品がこのような側面を否定しがたく孕んでしまっている―むしろこのような「仕掛け」を意図的に配置したのが彼の作品かもしれない―としたら?もちろん、その中にはモダニズムに対する反省、モダニズムが切り捨てようとして出来なかった感情、それもヴァナキュラーで個人的な感情と再び正面から向き合おうとする側面もあるだろう。だが、この決して解きえぬ問題の共有という「仕掛け」は排他的共同体(つまり民族主義)に重なる側面もあるのではないだろうか。

ボルタンスキーの作品は、誰にでも知られているが、すでに喪失され、知ることの不可能になってしまった経験を核にして、残された痕跡を累積し展示する。当然、重要な要素になっているのは記憶である。だが、実はその記憶は他人のものであって到達不可能なのである。にもかかわらず、残された痕跡を通して、鑑賞者はそれを想起しようとする。他人の経験とその記憶を、もう不可能であるにもかかわらず思い出そうとしてしまうのだ。つまり記憶と想起のズレが「感傷・共感」を作り出す。

80年代には、モダニズムが行ったセグメンテーション―つまり個々のメディアがどんどん分化・断片化し純化してしまったこと―に対して、もう一度その断片を統合するような主題を回復させようという素朴な問いが繰り返された。脱中心化してしまったモダニズム芸術に、再度中心を取り戻すのだ、と。その場合の主題というのは、簡単には「物語」だったように思われる。それがあることを観客があらかじめ知っていれば、すべての断片は自ずから関連付けれて見えてくるというわけだ。つまり、「共感・感傷」というのは、その不在の物語を機能させ、バラバラになってしまった断片を「ひとつに」組織するための最も有効な手段だったのではないか。

この仮説を敷衍する別の具体例として映画―「ロード・ムービー」というジャンルを採り上げてみたい。

映画はそもそも無数に可能な映像の結合から特定の一つを選び出す中心的根拠が曖昧である、という問題に悩まされてきた。映像の流れを統一する視点、映像を結びつけているはずの主体と言うのが、どうしても恣意的になってしまう。これが映画を見たときにつきまとう曖昧で主観的な印象の原因にもなる。観客は自分が見ている印象を客観化できないのだ。

ところが「ロード・ムービー」という形式は、この視点の統一性と問題の解決に関しては都合がいい。なぜか。まず、空間を線的に移動していく主人公がおり、映画の線的な時間の流れはその動きに並行している。つまり映像の流れはそのまま、移動する主人公の見たものと重なる。さらに、観客が終始見るのは一人から数人の登場人物だけで、その他の登場人物は、風景と同じように通りすがりに出会ったものにすぎないという処理が為される。そこに出てくる風景から主人公は疎隔されている。したがって映画を見ている観客と主人公の条件が同じだということだ。映画の光景と観客の疎隔感はそのまま主人公の風景からの疎隔感と重なってくる。「共感・感傷」「同一化」生じやすい条件が見事に揃うのだ。

ゴダールはある意味で、そのような映画の線的秩序の破壊を徹底させたと言えるだろう。映画の特質、それをあえて繰り返せば、映像を線的統一をせずに提示し、そのバラバラな断片同士が何によって統一されるかは大部分が観客の主観に委ねられる。たとえモンタージュは作者によるものだとしても、そこから「意味」を見出すのは観客という主体であり、「解釈」を施すのは観客だ。その主観的「解釈」によって(かろうじて)読み取った「意味」に自信がないから、「面白い」「哀しい」などの言葉だけで口をまごつかせるほかなくなる、といった事態が生じるのだから。

ゴダールはこうした映画の断片性をより剥き出しの状態に近づけ、提示した。とするならば、ヴィム・ヴェンダースはこの逆を行こうとしていると捉えることが可能となってくる。つまり、ヴェンダースゴダールがやったような離散的断片に、再度中心を作り出し孤立した断片と孤立した印象どうしを「共感」させようとしている、と。

重要なのは、そのような「中心」あるいは背後の「物語」が本当にあるのか否か、その客観的実在性は問題ではないということだ。それがあたかもあるかのように感ぜられれば、語りえないものの共有といった否定的分有によって孤独が連帯可能となるからだ。つまり、「壁」に囲まれつつもその孤独を癒してくれる―アイデンティティの保証をも担っているような気がしてならない―。しかし、「壁」の向うからアイデンティティを支えてくれる「中心」「物語」は本当にあるのかわからない。それを「誰が」与えてくれているのか分らない。「誰」とは「権力」かもしれない、と想像するのに難くない。

否定的契機、例えば「不可能性」がそうだが、これは逆に言えば「可能性」、あったかもしれないが、あったかどうかは言えない、という事態を強化する。それが作品化され「芸術作品」という構造に収まってしまうと、傷としてそれが利用されているだけで、誰もその作品に対して否定しえない、判断し得ないという条件、つまり「作品の自律」という資格を対象に与える口実となってしまう。それは結局、語りえない「もうひとつの歴史」というものの強化にしかならない。このような「回収する仕掛け」には、それでもなお、抗しなければならないと思う。

断片というのは相互に無関係で分裂していて、その意味でチャンス・オペレーションのようなものだ。「これは偶然だよ」と言ってしまえば、それで済んでしまうような。ところが、断片が輝いて見えるときというのは、どんな断片のゆがみにも必然性を感じる。すると、その必然性を与えているはずの、断片同士を結びつけるだろう「物語」「中心」をでっち上げるという倒錯が生じかねない。それが見事になされてしまえば、どんな出鱈目なものでも輝いて見えてしまう。問題は、そのような「物語」「中心」を(否定的に)想定するやり方以外の、断片を輝かせる方法を、テクネーを見出すことではないだろうか。