固有名について:要約

『名指しと必然性』を著したクリプキは、そこでフレーゲ/ラッセルの記述理論を批判した。記述理論では、固有名を縮約された確定記述の束と捉える。「アリストテレス」という名は、「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」といった書性質の集合の短縮形としてある、と考える。

クリプキはここに条件法=可能世界を導入することで記述理論の欠陥を指摘する。それはこうだ。例えばいま、アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった、という新事実が判明したとする。記述理論に従えば、そのとき我々は「『アレクサンダー大王を教えた人』はアレクサンダー大王を教えていなかった」、つまり「A=notA」という矛盾命題を持つことになる。当然これは有意味ではない。他方、「アリストテレスアレクサンダー大王を教えてはいなかった」という命題は有意味であり続ける。この訂正可能性を含意しつつ我々は「アリストテレス」という固有名を使用している。つまり「アリストテレス」は「アレクサンダー大王を教えた人」という確定記述とは等置されない。これを一般化し、固有名は確定記述の束に還元されないということが帰結する。記述理論はここで破綻する。

「固有名は確定記述の束に還元されない」とは「固有名にはつねにある剰余が宿っている」と言い換えられる。柄谷はこの剰余を単独性と呼び、確定記述の特殊性と対置させる。しかし我々ははじめに「アリストテレス」という固有名に出会ったとき、必ず「〜をした人がアリストテレスである」という命題としてその定義づけを行い(学び)使うようになったはずである。この時点では明らかに固有名(単独性)と確定記述(特殊性)は等しい。以後、経験的知の増大に関わらず構造は変わらないはずである。ではいつの間に固有名に剰余=単独性が宿ったのか?

クリプキは、固有名の伝達において我々はその固有名の説明(定義)以上のものもまた受け取っている、と解決する。説明以上のもの、それは語りえぬ力であり、その力の源を「命名行為」に根拠付ける。命名=指示行為は確定記述=特殊性を越え、一足飛びに単独性そのものを名指すことが出来る。その名指し=飛躍の痕跡が固有名の上に「固定指示子」として宿り、伝承されていく。したがって、固有名の剰余とは名指しの記憶、言語外的な出来事の記憶として捉えられることになる。この解決において、確定記述=説明と剰余=単独性は二つのレベルに峻別されている。ここから「説明」の伝達とは別個に、単独性の伝達もまた保証される必要性が生じる。クリプキはそれを純粋伝達を行う共同体という観念的仮定=神話を導入することで封滅しようとする。
(しかし同時にこのクリプキの議論は、デリダによるベンヤミン読解、法措定的権力(名指し)と法維持的権力(純粋伝達する共同体)とパラレルであることに気づかされる。この点については後日に改めたい。)

クリプキのこの理路を脱構築の立場から説明するとこうなる。彼は記述理論を脱構築した結果として、脱構築不可能なもの、理論的思考の残余=剰余としてのみ固有名の単独性を見出した。その剰余を語るには神話が必要となる。剰余=単独性はネガティヴに、脱構築の限界を通してしか語れないという事態に陥る。

ジジェククリプキが陥った神話化を、「現実界」と「現実」の区別を導入するという理論的精緻化によって捉えなおそうとする。クリプキの導入した共同体神話(純粋伝達)に代えて、「現実界」にその根拠を設定することを提案する。

ラカン精神分析において、「現実界」とは象徴界ゲーデル的亀裂を支持する。象徴界(確定記述の集合)を構成するシニフィアンの循環運動は不完全であり、必ず「ひとつ」、他のシニフィアンへと送り返すことのできない、シニフィエなきシニフィアンが存在する。それが「現実界」に対応するシニフィアン対象a=ファルスであり、固有名はこの特権的シニフィアンとして機能するがゆえに、シニフィエ=確定記述へと送り返すことができない。剰余は確定記述の不完全性により保証されている。特定の名が生まれる「現実」的な事情は剰余とは無関係である。象徴界の亀裂を埋めてくれれば名は何でもよい。純粋な伝達過程という神話も不要となる。

デリダが批判するのは、このただ「ひとつ」の特権的シニフィアンがある、と理路を進める精神分析の、単数化傾向である。ラカンはこの特権的シニフィアンを説明するにあたり、ポーの『盗まれた手紙』に登場する手紙を範例としている。盗まれた手紙は何も表象しない(内容は誰にもわからない=確定記述に還元されない)。手紙は様々な人の手を渡っていく。それゆえ手紙=ファルスには「自分自身の位置をもたない」位置という逆説的位置が保証される。ラカンの手紙は決して届かない=読まれない=確定記述を持たない。しかしその絶対的不可能性はかえって手紙=ファルスに対して「決して届かないこと」をこそ保証してしまう(「どこにも届かない」という場所に届く)。デリダはこの「どこにも届かない」ことを批判する。つまり「届かないことがありうる」という確率的位相が抜け落ちてしまっている点を批判する。

手紙という表現は固有名の隠喩として機能しているが、しかし同時に手紙は物質性を持つことに注意せよ。デリダは手紙が引き千切られ、その断片のみが送られる可能性を考えている。また、手紙が行方不明になってしまうことも含意している。郵便機能の不完全さ、脆弱さが、手紙の送付先(送付されないということも含めて)は可能性として無数に考えられるのだ。