Giorgio Agamben "Means without End" 拙訳(未完のため随時更新・調整中)

序文

 この書に収められているそれぞれのテクストは、特異な政治的諸問題に対して、私なりに思考を試みたものである。もし政治が今日において自らの失墜を先延ばすことを実現しているのだとしたら、そして宗教や政治、さらには司法までもが各々の存在のステータスを失うことで生じた領域へと、政治が自らの適用範囲を拡大し、サバルタンの立場を出現させているとしたら、それは諸カテゴリーや諸概念の変容に対する応答が失敗したということである。したがって、以下では、ふつう政治的なものとして思考されず、あるいはマージナルなものとしてのみ扱われてきた諸経験・諸現象において、政治的範例が誠実に探究されることとなる。すなわち、人間存在の自然的生(かつては政治的な領域から排除されていたゾーエー、現代ではフーコーの分析によってポリスの中心へと置きなおされた対象)であり、例外状態(法の支配の恒常的緊張が、法体系それ自体の基礎を構築することに代わって露にされている状態)であり、強制収容所(我々が暮らしている政治的領域の隠されたマトリクスがそうであるように、公的/私的の二項対立が無効になる地帯)であり、公的にはマージナルな形象として見なされているが、いまや現代における人間存在と市民の間にある蝶番の破壊によって生じた近代国家の決定的な形象となっている難民、我々が暮らすスペクタクルな民主主義社会の政治を定義づけているランガージュの肥大と押収、そして政治に固有な身振りあるいは純粋な手段の領域(すなわち、手段でありながら終末[目的・終り]との関係から自身を解き放っている手段の領域)が、真正なる政治領域として布置されているのだ。
 これらすべてのテクストは、さまざまなアプローチによって、そしてそれらが書かれた状況にしたがって、さらなる探究へと開かれていることを指し示している。あるときはそれらの探究の固有の核を先取りして示し、別なときにはそれらは断章・断片である(そのような探究の最初の産物が「ホモ・サケル」と題された書物である)。このようなものとして、各テクストはそれらの真の意味を複雑な探究のパースペクティヴにおいてのみ見出されるよう運命づけられている。そのような探究とはすなわち、主権権力と剥き出しの生の狭間で、我々の政治的諸カテゴリーを再考するということである。


第一章
 
 生の形式(Form-of-life)

 古代ギリシャ人は、現代の我々が「生life」という単語で意味しているところのものを、一語だけでは表現していなかった。彼らは語形的にも意味論的にも区別された二つの言葉を使用していたのである。すなわち一つはゾーエー(zoe)であり、これはすべての存在者(動物、人間、神)に共通した、生きているという端的な事実そのものを意味していた。他方ビオス(bios)という言葉があり、これは個人あるいは特定の集団における各固有の生の形式あるいは様式を意味していた。近代以降の言語において、この対立概念は徐々に語彙から失われていった(この区別は「生物学biology」と「動物学zoology」の別として保持されて入るものの、もはや本質的な相違を示していない)。一方の言葉のみが―語の指示持対象の神聖化と相まって、その言葉の不透明さは増すばかりだ―剥き出しの状態で想定された共通要素を指し示しており、多くの生の形式から分離することが常に可能なのだ。
 しかし一方で私は、この「生の形式」という言葉によって、その形式からはけっして分離しえない生、剥き出しの生といったものを分離することが決してできない生というものを意味している。

 形式から分離されえない生とは、生き方において賭けられているものが生きることそれ自体であるような生である。この定式化は何を意味しているのだろうか。それは生―人間の生―を次のように定義する。すなわち、形式的に一致した生活のさまざまな方法、行為、過程はけっして単なる事実ではなく、つねにとりわけ生の潜在性であって潜在力なのだ。各々の振る舞いや生活形式は、特定の生物学的適性によって規定されることは決してないし、どんな必然性によっても隷属させられることはない。あるいは、たとえどんな習慣や反復的営為、社会的強制でさえ、常に潜在性しるしは維持されているのだ。すなわち、常に生きることそれ自体が賭けられているのだ。このようなわけで、することもできるし、しないでいることもできる、成功もすれば失敗もする、自己喪失もすれば自己発見もする、そのような力能の持ち主として、人間存在は常に自らの幸福が生きることそれ自体に賭けられている単独者[only being]であり、自らの生が矯正=救済されえず[irremediably]、骨を折りつつ幸福へと配属=隷属されている[assigned]単独者である。しかしこのことは直接的=無媒介的に[immediately]生の形式が政治的生として構成されていることを意味する。「国家とは共同体である。その共同体は生きることのために、人々のよりよき生活のために制定されたものである。」(パドヴァのマルシリウス[13世紀から14世紀のイタリアのスコラ哲学者。)

 他方、我々が知っているように政治的権力というのは、常に自らを―近年の事情においては―生の形式のコンテクストと剥き出しの生の領域の分離=閾の上に見出す。ローマ法においてヴィータ(生)とは司法上の概念ではなく、むしろ生きているという端的な事実あるいはある特定の生き方を意味している。次のような唯一の事情があるのだ。「生life」という言葉が、文字通りのテクニカル・タームとしてそれを変容させる司法上の意味を纏い、そのように変容した言葉が「ヴィータイ・ネシスケー・ポテスタス[vitae necisque potestas]」すなわち息子に対する「家長の生殺与奪権」という表現のなかで存在するようになるといった事態が。この表現[vitae necisque potestas]において、ヤン・トマスは、「que」というのは隣接的接続詞・結合子ではなく、「生=ヴィータvita」は「死=ネクスnex」の当然の帰結にほかならない、すなわち[vitae necisque potestasとは]殺す権力なのである、ということを示した。
 したがって、生ははじめから死へと晒す権力の対概念としてのみ法の下で現れたのである。しかし家長の生殺与奪権に正当性を与えているものは、さらに強健な主権権力(支配権)であり、このもとで家長権は独自の境域[cell]を形成する。したがって、主権権力のホッブズ的基盤においては、自然状態の生が無条件的に死の恐怖(境界無き万人の万人に対する権利)へと晒されることによってにみ定義されている。そして政治的生―すなわち、リヴァイアサンの保護下につなぎ止められていない生―とは、まさにこれと同じ生であり、いまやもっぱら主権権力の掌中で脅迫に晒されてあることに他ならない。絶対的・恒久的権力、これは国家権力を定義づけるものであるが、それは―近年の場合―政治的意志にではなく、むしろ剥き出しの生[naked life]において見出されるのだ。剥き出しの生は、生殺与奪の主権権力(あるいは法権力)を甘んじて受け入れる=服従するという水準においてのみ保たれ保護されている状態である。(これはまさに、「聖なる[sacer]」という形容詞がかつて人間的生に言及していた際の元来の意味である)。例外状態という、主権権力があらゆるすべての時に決するこの状態は、剥き出しの性―通常であれば社会的生のさまざまな形式へ再接合されて現れる―が露骨に拷問状態に置かれ、政治権力の究極的基礎として呼び戻されるときに、その姿を現す。例外状態として直ちに都市内部へ組み込まれなければならないその究極的主体とは、つねに剥き出しの生なのだ。

 「抑圧された者達の伝統は、私たちが生きている〈非常事態〉が実は通常の状態なのだと、私たちに教えている。この教えに適った歴史の概念を、私たちは手に入れなければならない」[ベンヤミン「歴史哲学テーゼ:Ⅷ」―『ベンヤミン・コレクション1』、浅井訳、六五二頁を参照]。ヴァルター・ベンヤミンのこの診断は、それから五十年以上過ぎた今となっても、少しも色褪せることはない。というのも、これは単に権力が今日もはや非常事態以外に自らを正当化する枠組みを持ちえていないことのみならず、権力がいたるところで絶え間なく非常事態を宣言しアピールすることが、秘密裏に非常事態を作り出すことに腐心しているのと表裏一体である、という理由によるのだ。(非常事態という基盤以外ではもはや少しも機能すること出来ないシステムは、どんな対価を支払ってでもそのような非常事態を維持し続けることに関心があるのだろう、考えつくことは容易である―どうすれば思いつかないでいられようか)。これもまたとりわけ主権権力の秘められた基盤であった剥き出しの生が、至るところで支配的な生の形式となっているが故の事例である。いまや規範となった例外状態において、生とは、あらゆる文脈において、生の諸形式がある一つの「生‐の‐形式」へと凝集密着している状態から、各々の形式を分け隔てている剥き出しの生である。したがって、マルクス主義的なヒトと市民の間の切断線は、剥き出しの生(究極的かつ曖昧模糊な主権権力の受台)と社会的-法的なアイデンティティとして抽象的に再還元された多系列の生の諸形式(有権者、労働者、ジャーナリスト、学生、そればかりかエイズ患者、服装倒錯者、ポルノ・スター、幼稚園児、親、女性)との分割に取って代わられているのだ。それらはすべて剥き出しの生に基づいているのだ。(その零落において形式から分かたれるそのような剥き出しの生を優れた原理―主権のそれであれ、聖なるもののそれであれ―取り違えたところに、バタイユの思考の限界がある。それは我々にとって使い道の無いものなのだ)。

 フーコーのテーゼ―以下の言による。「今日賭けられているもの、それは生である」、それゆえ政治は生政治となっているのだ―は、この意味で実質的に正しい。