選択-決断‐行為という難問(1)

幻肢の例を考えてみよう。無いはずの腕の感覚が、実は顔や肩口にもたらされる。これはこれでよい。しかし肩口なら絶えず肌着と衣擦れするのではないか。そうであるにもかかわらず、ある時は幻肢が感じられず、ある時には感じられる。つまり肩口の触感は時と場合に応じて選択されている。この選択は、脳が一方的に行っているのか?いや、むしろここに認められる選択の選択主体を我々は何か一つのものに決定できないのではあるまいか。選択主体が脳にあるのか、与えられた特殊な環境にあるのか、どちらとも決定できないのではないか。この選択の両義性をどう考えるか。

選択は明らかになされているのだ。しかしその選択は能動的なのか、環境依存の受動的なものなのか、判然としない。この両義性に徹底的に直面しない限り、事の本質は見えてこないのではないか。そうでないかぎり、出てくる解決策はありふれたものとなる。つまりそれは「一見能動的だが実は受動的である」とする解決案だ。もう少し言えば、能動的な学習は可能であるが、学習アルゴリズム自体は、進化過程の中で環境によって選択されてきた、とするものだ。注意せよ。このような解決において、学習過程に認められる選択過程を理解する説明の中に、再度進化における選択という概念が入っていることに。選択過程とは何なのか、それが抱えている本質的両義性のパラドックスを不問にしたまま、単純に問題の解決を先送りにしてしまう。

選択および決断という問題の重要性は明らかではないだろうか。能動性(恣意性や自由)と受動性(文脈=環境依存性・必然性)の両義性がそれである。この選択-決断の両義性は、例えば決定論と自由といった伝統的哲学問題として現れる。現代におけるこの問題はそれほど素朴ではないだろうが、仮にこの両義性を嫌ってどちらかに還元しようとしてしまう解決は、事の本質を逸しているといえる。そのようなナイーヴな理路は避けなければならない。

この問題をまた別な観点から照射してみよう。この私だけが存在し、世界や他人は私が創り出した幻影にすぎないと想像してみてほしい。こういった独我論は論理的に可能であり、これによって不都合は生じない。しかし、独我論を言葉によって説明する私に思いを馳せるなら、この世界に他者と共に生き、言葉を獲得してきた私を思い知らされる。世界から孤立した私は決して言葉を習得できず、また使えない。独我論を論証するとき、その正当性を主張できるということ自体によって、この私は逆説的にも世界の存在を認めないわけにはいかない。世界や他者の存在は、それを懐疑することの論理的不可能性によって理解される。

しかしこういった世界理解の方法は、弱弱しく見える。確固たるものにしたい、と思うのが一般的心情なのだろうか。このような否定的契機から世界存在確信の糸口が捕まえられるのなら、あとは「この世界」を前提とした世界理解の方法を編み出せばよいのではないか。ウィトゲンシュタインクリプキ懐疑論を経由した多くの議論がこのような共同体説へと傾倒していくように思われる。だが懐疑不可能性という否定的契機によって世界を擁護したあと、「私から世界へ」ではなく「世界から私へ」という図式を採用することは単なる転倒ではあるまいか。

ウィトゲンシュタインクリプキ懐疑論は以前に整理した。ここで登場する懐疑論者は、「規則」という確実な言明とそれを取り囲み用いる「従う」という行為の非分離性を暴露し、それゆえに、ある規則に従うことは不可能だと言う。だから懐疑論者は、確実な言明とその外部をどんなに厳密に分離しようとしてもそれは不可能だ、と論証しなければならない。しかし、未知数(例えば57)を言語表現によって具体化し「57」へと置換した時点で、ある種の自己侵犯を為してしまっているのではないか?懐疑論者の言い分を聞きとおせた我々において、すでに懐疑論が成立しえないことと同時に成立しうる状況が成立している。懐疑論の進行過程、ここに議論の核心があるのではないか?すなわち、発話における選択の問題である。

この懐疑論自体が成立不可能であるにもかかわらず、理解可能であるという次元において、懐疑論者も聞き手である我々もどちらも権威を持たない、と考えてみる。懐疑論者は自らの主張を為すために、発話の瞬間において選択‐決定し、それを聞く我々においても選択‐決定がある。それは自由で恣意的な私の選択であり、かつ同時に、社会的に必然的な規範的選択なのではないか。

この話者と聞き手双方が「対話」において為す、各々の「選択‐決定」の次元とは(「各々」という表現に留意せよ。ここには両者が一致して選択するという可能性をアプリオリに確保しない態度が強く含意されている。柄谷の言葉を借りれば確かにそれは「暗闇の中での跳躍」である。しかし私はそれを向こう岸に着地する可能性を考慮できない、きわめて強い意味として理解する)、両義的=中性的な次元、それゆえ「超越論的地平」なのではないか。これはデリダ=東的に言えば、「手紙が届かないこともありうる」という「郵便空間」であろう。誤配、誤用、行方不明(すなわち対話そのものがなされえない)、といった様々な可能性がひしめく確率的空間。この空間おける確率分布に根拠はない。中性的郵便空間。郵便空間の確率濃度が他者の濃度ということになるかもしれない。この点は十分な検討が必要であろう。また、この郵便的=確率的空間は時間をも内包している。これが重要な点である。郵便的=確率的=時間的空間としての「超越論的地平」は選択問題を考える上で重要なモデルである。

ここでデリダ=東的「郵便」へと敷衍したことについて、もう少し補足しておく。永井は、そもそも「対話」すらしようとしない・できない存在者、それが他者(の他者性)である、と主張する。この永井的他者を含意できる概念として「郵便(空間)」は有効なのではないか、と思われるからである。ただし注意すべきはデリダ=東が「亡霊の回帰」をも語っている点である。東はこの点に注意を促しており、「回帰しない(届かない)こともありうる」ことを強調する。「回帰」が積極的に語られてしまえば「対話」は「なされえない=なされないことがあってはならない」という積極的禁止=暴力=外部なき社会へと陥ってしまうからだ。我々はこの点を十分注意しておかなければならない。そもそも「対話」という地平に相手が乗ってこない可能性、すなわち「端的な無関係」というものを考えることができるか。永井が『〈魂〉に対する態度』において「われわれはそもそも交通[対話]の不可能性を学ばなければならないのだ」と語るその一文は、まさにこの意味で理解されなければならない。